北村さんちの遺跡めぐり
小松市 地図g
⑦ 左(衛)門殿古墳 三湖台古墳群 |
小松市月津町 撮影日2017/2/24 |
左門殿古墳となっている資料もあるが、左衛門殿古墳とするものもある。
現在、墳丘は「左門殿」の塚となっている。
左門殿古墳は、円墳と考えられているが、大きさや埋葬施設は不明、大部分が削平されている。 | |
見晴らしの良い 台地にある墓地の中にある。 |
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「瀧川玄蕃左門殿碑」 と刻まれた石碑の後ろに小さな墳丘 石碑の下部には説明も刻まれている。 説明文は読みにくくなっているが、 「瀧川玄蕃左門は、前田利政に仕えていたが、利政が隠棲してしまったので、額見に来て閑居する。 額見町の気多御子神社の社守となり、誠意神明に奉仕する。 後、大阪冬の陣夏の陣に、加賀藩三代藩主前田利常の先鋒となり、馬廻り役を勤め、元和元年戦死する。」 などと刻まれている。 (説明石碑から抜粋) |
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方向を変えて見る |
後から見る |
現状は径5mほどの墳丘だ。
「瀧川玄蕃左門」で、インターネット検索したところ、まんが日本昔ばなしの「草かり亀」が出てきた!
瀧川玄蕃左門が社守をしていたという額見町の気多御子神社の境内には、雑草が生えないという伝承があるという。
気多御子神社 左門殿古墳 補足 |
小松市額見町 |
瀧川玄蕃左門が社守をしていたという額見町の気多御子神社の境内には、雑草が生えないという伝承があるという。
「草かり亀」 |
延宝年間、社守の六兵衛が淵に入って禊をしていると、 淵に住む大亀が出現し、襲ってきたので捕えて殺そうとすると、 大亀は、末代まで境内の草を取り除く事を約束したので放免にした。 |
気多御子神社は瀧川玄蕃左門の子孫が代々社守をしていて、
昔ばなしに出てくる六兵衛さんは、四代目子孫の「瀧川六兵衛」さんだそうだ。
気多御子神社 祭神は大己貴命(気多大神)を主にして、菊理媛神(白山大神)、天照皇大神(神明大神) 以前は「神明宮」と称せられ、上古より気多の神奈備に鎮座され、延喜式式内社に列せられた。 長保・寛弘のころは華山法皇の崇敬が厚く、佛生寺」と命名された。 江戸時代には、歴代藩主の崇敬が厚く、3代利常公には社殿の再建、神領の寄進等特別の保護を受け、 社守には加賀藩士瀧川玄蕃左門氏およびその子孫がご奉仕されていた。 このあたりは「額田の郷」と称されていたが、いつしか「額見」といわれるようになり、 |
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「式内 郷社 気多御子神社」と刻まれた石碑 |
「華山(花山?)法皇云々」と刻まれた石碑もある。 |
長い参道 りっぱな神社である。 |
石造りの「草かり亀」? |
大亀が住んでいたという淵は、鳥居をくぐった右側の境内社・天満宮(菅原社)の所にあった!!
池は干上がっている!!
小さな社殿に小さな架け橋がある。 |
大亀がいるような大きな淵ではない・・・ |
天満宮(菅原社)は平安中期の創建と伝えられている。勧学の神様。 |
確かに草はあまり生えていない?!