北村さんちの遺跡めぐり
小松市 串茶屋遊女の墓周辺 (串茶屋遊女の墓 串八幡神社 王院館遺跡 今江春日神社 小松バラ園)
串茶屋の遊女の墓 小松市指定文化財 |
小松市串町 |
串町の墓地の一角にある。
六地蔵の覆い屋の中に「遊女の墓」のパンフレットが置かれていた。
串茶屋とは 前田利常が小松城に隠居(1640)して後、 那谷寺再建にかかる職人の往来など、北国街道の宿場・休み茶屋街として成立。 1660年(万治3年)に大聖寺藩領となってからは、 加越能3州で唯一の公認茶屋として発展し、文化・文政期(1804~)に最盛期を迎えた。 多くの商人・文人たちが社交の場として集う中で遊女たちは、文化交流の仲立ちにも大きく貢献したとされる。 |
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串茶屋遊女の墓 串茶屋の墓地は3回も場所を変えていて、 現在の場所に移されたのは、文化・文政(1804~1829)のころといわれている。 墓塔の石材はすべて凝灰岩で、主に地元の観音下石(カナガソイシ)・滝ヶ原石が用いられているが、 福井県産の笏谷石もみられる。 形状は大小さまざまであり、個性的で造形的にも優れたものが多く、近世の石造資料として重要。 碑文には法名に加え、源氏名が俗名として刻まれており、多くは廓の楼主の建立と考えられる。 当時の遊女は、死後の扱いは哀れなものだったが、 串茶屋の楼主は、養女としてその家の墓所に墓を建立し、菩提を手厚く葬った。 真宗の信仰心が厚い地域性を反映している。 (現地説明板・パンフレットから) |
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遊女の墓 見取り図 「遊女の墓」として、個人単独の墓は全国的にも珍しい。 平成21年に34基の墓が小松市指定文化財になる。 |
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茶問屋寄進の六地蔵 串茶屋村の池田家は、 大聖寺藩の命により元禄2年(1689)から6代120年間に亘り、 串郷の十村を勤めるとともに茶問屋を営業した。 この六地蔵は 4代目甚五郎が1770年跡継ぎの男子が相次いで夭折したので 供養のため建立した。 |
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六地蔵の由来 仏教の六道輪廻の思想では、死んだあと49日を過ぎると、 六道と呼ばれる地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天の六つの世界のどれかに生まれ変わってきた。 地蔵菩薩はこの六道全てに姿を現すことのできる唯一の仏様で 六道に生まれ変わったすべての生き物に教えを説き、救いに手を差し伸べてくれる。 死んだ肉親、知人たちが六道のどこに生まれ変わっていようとも、 是非その人を救ってくださいと願って六地蔵が作られるようになった。 また安置される場所は墓地の入口が圧倒的に多く、 死者の世界と現世との境に立って悪霊などの侵入を防いでいる。 |
串八幡神社 |
小松市串町 |
近くの神社の見学
串八幡神社には、参道にずら~っと、石造物が並ぶ。
境内 |
「憲法発布記念」の石造モニュメント |
石文化の小松市を実感できます。
王院館遺跡 |
小松市今江町 |
今江町の大きな墓地の駐車場に「王院遺跡」の石碑がある。
花山法皇が北陸巡行の折、この地をこよなく愛し3年間住まわれて里人との親交が深まったという。 この館からたびたび三湖台に登られたことから、御幸塚と呼ぶなど、 このあたりに「王子の宮」「王子内」の地名となってその名残をとどめている。 (説明板から) |
王院館遺跡 後ろは墓地の駐車場 小松市で一番大きな墓地だそうだ。 |
今江春日神社 |
小松市今江町 |
王院館遺跡のそばには、今江春日神社がある。
五郎座貝塚や多くの古墳があることから、今江の発祥は、小松市内でも古い方である。 今江の氏神である。 花山法皇が、王様屋敷に居住され、やがて別れを惜しむ村民に対し自画像を与えられ、 王子宮春日大明神とするよう教えられたのが、この宮のおこりだとの伝承がある。 白山社外五社を境内社として祀っている。 1205坪あり鎮守の森を形成している。 祭神は、経津主命(ヘツヌシノミコト)・武甕槌命(タケミカヅチノミコト)・天児屋根命(アメコヤネノミコト) ・比咩大神(ヒメオオカミ)・石凝姥命(イシコリドメノコト)・伊弉諾尊(イザナギノミコト) ・伊弉冉尊(イザナミノミコト)・事代主命(コトシロヌシノミコト)・市杵島媛命(イチキシマヒメのミコト) (現地・今江春日神社由来から) |
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南西側の入口に鳥居が2つ! |
南東側の入口にも鳥居が2つ! |
石の鳥居がなんと4つ。この神社も、石文化の小松市を感じさせる。
遺跡ではないけど・・・ | 小松バラ園 |
小松市末広町 |
北陸中日新聞に小松のバラ園が見頃だとという記事が出た。
小規模ではあるが、いろんな人たちの努力できれいなバラが育っている。