北村さんちの遺跡めぐり
小松市 地図g
加賀国府を考える |
小松市河田町(コウダマチ)ほか |
小松市埋文・市民講座「加賀国府を考える」に参加。
加賀国府を考えるpart4 |
小松市河田町(コウダマチ)ほか |
2016年2月14日、小松市埋蔵文化財センター主催「加賀国府を考えるpart4 瓦に学ぼう 加賀国分寺」という講座に参加。
出土した瓦から、加賀国分寺の場所を推定してみようという、この講座は、「国府公民館」で開催された。
国府とは奈良時代から平安時代に全国の国ごとに置かれた役所。
国府の近くに国分寺や総社(惣社)があるという可能性が高いので、
加賀国府・加賀国分寺・加賀総社神社の、どれか一つが確定すれば、あとの二つはその近くを探せばいいということになる。
この河田町には、「国府(コウ)」という地名が残っていて、その近くに総社と考えられる神社がある。
国分寺での使用が推測されている瓦が国府台地周辺の集落遺跡で出土している。
(講座があった日は雨だったので、写真は後日撮影した。)
十九堂山(ジュクドヤマ)遺跡 | 小松市古府町 |
十九堂山遺跡 瓦が出土している。 国分寺推定地である。 現在は墓地となっている。 |
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十九堂山遺跡のあたりは、 周りより一段高くなっているので、 国府や国分寺の立地には ぴったりかもしれない・・・・ |
十九堂山遺跡の400mほど南に石部神社がある。
加賀総社 石部神社 | 小松市古府町 |
現地の由緒書きによると 弘仁14年(823)、越前国から分かれて加賀国ができた。その府庁のあったところがこの近くである。 その南に当社がすでに祀られていたと伝えられる。 府の南にあったので府南社(フナンシャ)ともいわれ、この地を府南山と号した。 当時国司は、毎月一日に加賀の主な神社八社を廻り参詣した。 やがて当社を加賀国総社とし、ここを参詣することによって八社を廻るのに代えた。 当時の当社の隆盛と規模の雄大さは、加賀国第一であったといわれている。 延喜年間(904)に「式内社」に列せられ、神名帳に登録されている。 安元2年(1176)に国司と白山衆徒との争乱よる涌泉寺事件に関係して、神社は大きな被害を受けた。 その後は往年の盛況はなく、応永28年(1421)の足利義持判書に 「南禅寺領加賀国府南社御供田云々」とある如く、南禅寺と所領争いもあった。 慶長5年(1600)小松城主丹波長重は、社殿を修理し宝物を納められた。 加賀3代藩主前田利常は厚く当社を尊信し、歴代藩主もまた厚く敬い奉幣した。 明治5年 郷社となる。 現神殿は昭和37年に造営された。 現在は盛時の面影はない。 付近に残る数々の遺跡や旧地名に往年の状況を偲ぶことができる。 (説明板から) |
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北から見た石部神社 「加賀国惣社府南□□石部神社」と刻まれた石碑 |
一の鳥居 |
参道 |
二の鳥居と社殿 |
参道脇に置かれている石は、 昭和初期に十九堂山が整地される際に 加賀国分寺の礎石を持ってきたものといわれている。 塔心礎みたいに見える・・・? |
実は、この国府地区には、現在も国分寺がある。
現代の国分寺は、真宗大谷派
聖武天皇の時代の国分寺との関係は・・・ないだろうな?
小松市経済観光文化部発行の「加賀国府を訪ねる」というパンフレットもあります。
小松市国府地区の遺跡
「加賀国府を訪ねる」パンフから引用
黄色い部分が加賀国府推定地
平成28年度には、能登の七尾市で「国府サミット」が開かれるそうだ。
2023年の
府南山歴史公園
加賀総社 石部神社小松市国府町
撮影日2023/7/2
加賀総社と考えられている石部神社(イソベジンジャ)境内は発掘中で、
「南野台遺跡」の大きな説明板が設置されている。
石部神社 鳥居 石碑には、「加賀総社 石部神社」 と刻まれている。 |
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社殿前には ブルーシート |
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土器片? |
インターネット上に
「小松市内遺跡発掘調査報告書][ 加賀国府・国分寺関連遺跡確認調査概要報告書」
が公開されているので参考にさせてもらった。
加賀国府・国分寺関連遺跡 南野台遺跡 (石部神社境内) ミナミノダイイセキ |
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大きな説明板がある 平成27・28年度から 調査が行われている。 隣接地には公園が整備中です。 |
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説明板から
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古代の礫敷遺構 (説明板から) |
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中世の礎石総柱建物 (説明板から)
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2023年10月22日に、石部神社の隣接地に「府南山歴史公園」のオープン式典が行われた。
加賀立国1200年に合わせて小松市により整備がなされた。
約400uの公園には、あずまやや神社を囲む遊歩道が設けられている。
あずまやには、平安時代に同市二ツ梨町で焼かれた鬼瓦と、
同市戸津町で焼かれた軒先瓦を模した瓦が用いられている。
(北陸中日新聞 2023/10/23から)
小松市埋文・市民講座「加賀国府を考える」part5
「最新の研究から見た加賀国府・国分寺」
参加報告小松市白江町
第一地区コミュニティセンターにて
2017/2/19
講師の大橋康夫氏は、現在島根大学法文学部の教授をなさっている方である。
ご自身が関わった武蔵国府・国分寺や出雲国府・国分寺を例に挙げながら、
加賀国府・国分寺の位置の可能性についてのお話を聞かせていただいた。
現在十九堂山遺跡が加賀国分寺推定地で、瓦も出土しているが、量が少ない。
豪雪地帯なので、瓦葺きの屋根が一部しかなかったのではないか?
国分寺の敷地は、かなりの面積を必要とするが、十九堂山の面積で足りるのか?
昨年も十九堂山遺跡に行って来たが、今回もう一度、行ってみる・・・・
十九堂山遺跡
昨年の写真
周りより一段高くなっているので、国府や国分寺の立地にはぴったりかもしれないが、
遺跡を実際に歩いてみると、やはり国分寺の敷地にしては狭いような気がする・・・
十九堂山遺跡には、国分寺のお墓がある・・・・
今後の調査を待つしかないかなと思います。
会場の展示 | ||||||
昭和29〜30年当時の新聞記事の展示 「昭和29年に旧国府村の十九堂山遺跡が国分寺候補として試掘調査されたことが発端となり、 旧中海村との間で争奪戦が繰り広げられた。 古代寺院の集中する加賀市も参戦し、 国分寺研究の第一人者、石田茂作博士を巻き込んだ調査合戦となった。」 昭和32年11月の新聞記事では、加賀国分寺は、小松市の国府に断定となっている・・・。 |
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旧国府村(小松市河田町周辺)出土の瓦
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旧中海村(小松市軽海町周辺)出土の瓦
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小松市二ツ梨町・戸津町周辺出土の瓦
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出土したものが少なすぎて、なかなか確定には至らない・・・。