北村さんちの遺跡めぐり
更新日2022/1/15

金沢市
 金沢城址 兼六園 東茶屋街 尾崎神社 国立工芸館 赤レンガミュージアム 
加賀八家屋敷跡 金沢城惣構跡 

兼六園周辺の遺跡
ちょっとマイナーな観光

2017/11/22
2017/12/9

金沢市の地図g

 金沢城跡 金沢市丸の内
撮影日2022/10/27

「国指定史跡 金沢城跡」 説明板
大手門から入るとみつかる。

戸時代後期の金沢城絵図 拡大
 金沢城は犀川と浅野川に挟まれた細長い丘陵地・小立野台地の先端に築かれた平山城で
  本丸の標高は約60m、城下町との標高差は約30m。総面積は約30ha。
 城となる前は加賀一向一揆の拠点として金沢御堂が天文15年(1546)に置かれていたが、
  天正8年(1580)に織田信長の重臣柴田勝家の軍勢に攻略されて、
  その指揮下にあった佐久間盛政が城主となり、
  これ以降、加賀・能登・越中3ヵ国を領し、
  江戸時代を通して最大の大名であった加賀藩前田家の居城として発展した。

 利家、利長時代の城の姿は不明な点が多いが、
  天正14年(1586)頃に天守を創建したという史料が残る。
 現在の本丸、二ノ丸、三ノ丸などの配置は
  寛永8年(1631)の大火後に3代藩主前田利常により整備された姿。
 宝暦9年(1759)の城下町最大の大火により城の建物の大半が焼失し、
  その後は再建されない建物も多かったが、
  現存する石川門と三十間長屋は江戸時代に再建されたもので、
  鉛瓦や海鼠壁(ナマコカベ)など金沢城の特色をよく表している。
 
 明治維新を迎えると藩主は城外に移り、城は軍用地となった。
 第二次世界大戦後は金沢大学のキャンパスとして利用されたが、
  大学移転後の平成13年(2001)に県営都市公園として一般に開放され、
  城郭施設の復元整備が進められている。
 金沢城は近世城郭としての縄張りや
  高い技術によって構築された石垣が良好に残る代表的な近世城郭の一つであり、
  近世の大大名の政治権力や築城技術を知るうえで重要であることから、
  平成20年(2008)に国史跡に指定された。

大手門側から見た金沢城跡

河北門二の門

五十間長屋
橋爪門


橋爪門 説明札

橋爪門一ノ門

橋爪門二ノ門

左 五十間長屋  右 河北門

二ノ丸 発掘調査中
「いしかわを掘る」で報告があった。


忠実に復元するために
 少しずつ発掘が行われている。
 「令和4年度 発掘報告会 いしかわを掘る」での報告
 
調査区平面図 垂直写真 (「いしかわを掘る」資料から)
 江戸後期の御殿建物の柱を支える礎石の遺構や御殿北東部の建物の位置が確認できた。
 火災片付け土坑から飾金具が出土して、表面に花菱文様があることがわかった。


石川門


 兼六園 金沢市丸の内
撮影日2022/10/27

ご存じ! ことじ灯籠

霞ヶ池

霞ヶ池の写真を撮ったところで、スマホが固まる…。
2時間後復活したが、兼六園の写真は撮れなかった…。


 東茶屋街 金沢市東山
撮影日2022/10/26
 文政3年(1820)、茶屋町が創設され、天保2年(1831)に一時廃止された。
 その後慶応3年(1867)、東新地と改められ再興された。

説明板

東茶屋街 (撮影日2022/10/26)
 説明板拡大

東新地として再興されたときの
表木戸の様子

   

二番丁の大通りに桜と柳が交互に並べて
植えられた時もある
国指定重要文化財「志摩」
パンフレット 表紙


文政3年(1820)に創立された格式の高いお茶屋の建物
見学できます
入館料 大人 500円

金箔入りソフクリームト

東茶屋街名物!

次はおまけです!

 乗敬寺 (ジョウキョウジ) 金沢市彦三町
撮影日2022/10/26

ん(?)十年前、女子会のメンバーが
 このお寺の2階に下宿していた。
懐かしい!

この寺は、
 2013年に亡くなった俳優・石田太郎さんが、
 俳優業の傍ら住職を務めていた。

下宿していた頃は、
  石田太郎さんの母親が切り盛りしていた。

乗敬寺は、現在の住職も常駐ではなくて、行事がある時だけいらっしゃるそうだが
 檀家の方々がお世話をしていて、きれいになっている。
  (通りかかった女性の話から)

尾埼神社

金沢市丸の内
撮影日2017/11/22

 尾崎神社は   天照大神、東照大権現(徳川家康)、第二代加賀藩主前田利常を祀る。
 寛永20年(1643)、東照大権現を祀ることを許された四代藩主光高が、
    金沢城北の丸に東照三所大権現社として建立。
 徳川家葵の紋がところどころにちりばめられた十数棟に及ぶ社殿を誇った神域は、
    「金沢城の江戸」「北陸の日光」と呼ばれ崇められた。
 明治7年(1874)、尾埼神社と改称。
 明治11年(1878)、金沢城内に駐留した陸軍省の都合により現在地に移築され、
  昭和25年に、「本殿附厨子・中門・透塀・拝殿及び幣殿 附棟札3枚」が重要文化財に指定された

神門 境内南側から見る

西側にある鳥居

拝殿  国重要文化財

拝殿の扉には、葵の御紋

中門、透塀、本殿
中門は、幣殿と本殿の間に建ち、平唐門で、
その両脇から透塀が伸びて本殿を取り囲んでいる。

境内社 豊受稲荷社


辰巳用水分流再興碑  (1889年に建碑)
境内にある。

説明板があるが、読めない部分がある。
辰巳用水の分流が、
  明治時代に一時途絶えたのを再興したときの記念碑だという。

     

「兼六園周辺 文化の森」

金沢市石引4丁目
撮影日2017/11/22

「兼六園周辺文化の森」は、兼六園を中心とする半径約1kmの範囲の中に、
   藩政期から近代に至るまで各時代の歴史が重層的に集積する石川県を代表する緑豊かな文化空間となっており、
   数々の文化施設や公園緑地が整備されている。

兼六園、金沢城など江戸時代の武家文化と、それ以来受け継がれてきた伝統文化を味わうことができるほか、
  石川県立歴史博物館、石川四高記念文化交流館など、
   明治、大正期のモダンな建物を通して、当時の金沢の歴史と郷愁を堪能することができる。
           (説明板から)

「兼六園周辺 文化の森」地図 

いしかわ赤レンガミュージアム
  (石川県立歴史博物館・加賀本多博物館)
     の前にある地図から


   

旧陸軍第九師団司令部庁舎
(石川県庁石引分室)

金沢市石引4丁目
撮影日2017/11/22

 旧陸軍第九師団司令部庁舎 (石川県庁石引分室)       県登録有形文化財
 この建物は、明治31年に金沢城二の丸跡地に旧陸軍第九師団司令部として建てられた。
 木造2階建、瓦葺で、
  正面玄関のピラスター(付け柱)やペディメント(三角形の切り妻壁)、
  上げ下げ窓の下に付けられた手すり状の意匠など、
  初期洋風建築のもつ簡素なルネサンス風の外観を特徴とする。
 明治期の庁舎建築の好例で、造形の規範となった建物として貴重である。

 昭和24年からは金沢大学本部が使用。
 昭和43年に石川県が取得し、現在地に移築された際、
   両翼がほぼ半分に切り縮められて、
   外壁が漆喰塗りからモルタル塗りに変更されたが、ほかはほぼ原形を保つ。
 平成16年3月まで、「石川県庁舎石引分室」や「県民ふれあい公社」として利用されていた。
 平成19年(2007)から、石川県立歴史博物館の分室となる。
 陸軍第九師団は、日本帝国陸軍の師団で、
  日清戦争の後、軍備増強の必要性から1898年(明治31年)に新設された6個師団の一つ。


旧陸軍第九師団司令部庁舎


設計は、陸軍経理部
面積275u

旧陸軍第9団司令部庁舎の右側にあるのは、旧陸軍金沢偕行社。


左手前 旧陸軍第9団司令部庁舎
右奥 旧陸軍金沢偕行社



      

旧陸軍金沢偕行社
キュウリクグンカナザワカイコウイャ
(石川県庁舎石引分室)

金沢市石引4丁目
撮影日2017/11/22

 旧陸軍金沢偕行社  県登録有形文化財

 この建物は、明治31年(1898)大手町に陸軍金沢偕行社として建築された。
 木造瓦葺き2階建ての建物で、
   マンサード屋根やドーマー・ウインドウ、コリント式のピラスターなど、
   ややバロック風のデザインで高度の洋風様式技巧を示している。

 明治42年(1909)現敷地内に移築。
 戦後は北陸財務局と金沢国税局が使用した。
 昭和42年に県が取得し、昭和45年から55年には郷土資料館収蔵庫として使用。
 平成15年3月まで公園緑地課、県道路公社が利用。
 平成19年(2007)より石川県立歴史博物館の分室となる。

 「偕行社」とは、
   旧日本帝国陸軍の将校・陸軍将校生徒・陸軍高等文官の親睦組織及びその施設。
 現在も、形は少し変わったらしいが、同じ名前で自衛隊の親睦団体がある。



旧陸軍金沢偕行社


設計は、陸軍経理部

建築面積282u

旧陸軍第九師団司令部庁舎旧陸軍金沢偕行社
 すぐそばに移築されて、外観を活用して、国立工芸館として生まれ変わる。
2020年の東京オリンピック・パラリンピックの開催期間中に開館することを目指している。
2020年4月、この国立工芸館の完成式典が行なわれた。

国立工芸館

金沢市出羽町3-2
2021/10/28

2020(令和2)年10月25日、金沢市に国立工芸館が開館した。

コロナ禍のため、予定より遅れた開館となる。

明治時代に建てられた旧陸軍第九師団司令部庁舎と旧陸軍金沢偕行社を、
 石川県と金沢市が移築・整備してつくられた建物だ。

2つの建物の間には新たにガラス張りのエントランスが設けられて、ここが入口となる。


国立工芸館を県立美術館側から見る

左・赤レンガミュージアム
右・国立工芸館




工芸館になる前は、旧陸軍第九師団司令部庁舎・旧陸軍金沢偕行社は、
 県立能楽堂の東側に、二つの建物が並んでいた。

工芸館になってから、県立美術館と赤レンガミュージアムの間に移築された。

旧金澤兵器支廠兵器庫
キュウカナザワヘイキシショウ ヘイキコ
(現・石川県立歴史博物館
・加賀本多博物館)
国指定重要文化財

金沢市出羽町
撮影日2017/11/22

いしかわ赤レンガミュージアム(石川県立歴史博物館・加賀本多博物館))の赤レンガ建物は、かつて陸軍兵器庫だった。

 旧金澤陸軍兵器支廠の兵器庫三棟は、
   いずれも煉瓦造、二階建で、左右対称を基本とした端正な意匠になっている。
   90mに及ぶ長大な建物が並ぶ姿は壮観である。
 明治32年3月出羽町練兵場の一角で整地工事が開始されたが、
   この3棟は、明治42年(1909)から大正3年(1914)に建てられたものである。

 竣工から戦前まで幾度となく修繕工事が行われてきたが、
    建物の形状を変える決定的な改装工事は行われてない。
 戦後は昭和47年まで、金沢美術工芸大学に使用されていた。
 大学の移転を機に県が取得、
 1986(昭和61)年、石川県立郷土資料館がここに移転し、石川県立歴史博物館として開館した。
  博物館として再活用するにあたり、外観は創建当時の姿を忠実に復元し、
    内装は建物の文化財としての価値と展示設備との調和をはかりながら改装された。
 歴史的建造物の保存と博物館としての再利用が評価され、
   1990(平成2)年には国の重要文化財に指定され、翌年には日本建築学会賞も受賞。
 陸軍兵器廠(リクグンヘイキショウ)は、日本帝国陸軍の機関の一つ
  兵器・弾薬・機材などの補給、要塞の備砲工事を担当した。

全長90mの建物だ

3棟が整然と並んでいる。

棟名は、
第五號兵器庫・第六號兵器庫・第七號兵器庫
いずれも煉瓦造、二階建、桟瓦葺

 第5棟:明治42年(1909)竣工 建築面積1,243.0u
 第6棟:大正2年(1913)竣工 建築面積1,322.3u
 第7棟:大正3年(1914)竣工 建築面積1,322.3u

石川県歴史博物館には、数回見学に行っているが、最近では、
2016年の春季特別展「加賀・能登王墓の世界」に行き、それに伴う書籍も購入した。   

加賀八家「奥村家」(宗家)屋敷跡

金沢市石引4丁目
撮影日2017/11/22

現在の医療センターのある所は、加賀藩家老奥村家の屋敷跡だ。

 八家というのは、加賀藩の年寄「家老」の職にあたる門閥のことで、
    八家あったことから名付けられた。

 
元禄3年、5第藩主前田綱紀の定めたもので、
   本多家(50000石)、長家(33000石)、横山家(30000石)、前田家(長種系18000石)、
    奥村家(宗家17000石)、村井家(約16500石)、奥村家(12000石)、前田家(直之系11000石)があった。
      (幕末時の禄高)
 奥村家(宗家)は尾張(愛知県)荒子城以来の前田家旧臣で、
   藩政時代初め永福から栄滋まで14代を数え、
   禄高は永福の11950石から数回加増され、17000石を世襲した。
 初代の奥村永福(オクムラ ナガトミ)は、加賀能登越中の境の末森城主として、
   天正12年(1585)、富山の佐々成政の侵攻を撃破して前田家の危機を防いだ。
 屋敷は元和6年ころ、今の兼六園の地に賜り、元禄9年、石引町のこの地に移されて明治に至った。
 敷地は1万坪を越え、明治以降陸軍病院が置かれ、戦後国立病院となった。(現在は、医療センター)

奥村家(宗家)屋敷跡の土塀
道路に沿って残る約300mの土塀と
戸室石の石組み
に往時の広壮な邸の一端がしのばれる。

横の堀は辰巳用水

塀の中には、医療センターがある。

土塀に続く東側には、「史跡辰巳用水の石碑」、
「奥村家屋敷跡」の説明板
「北陸学院ウィン館」の案内板
   が並ぶ。

 「旧ウィン館」は、アメリカ人宣教師T・C・ウィンが設計し、明治21年に創建されたもので、
  下見板張り、ベランダなど典型的なコロニアルスタイル(植民地様式)の数少ない建物である。
  金沢市指定保存建造物となっている。
 この時は「北陸学院歴史ものがたり」が、
       旧ウィン館で展示されていて開館中だったが、見学してこなかった。

「史跡 辰巳用水」の石碑

兼六園に流れこむ辰巳用水は
 1632年、3代目藩主前田利常が板屋兵四郎に命じて
 金沢城の防火のために造らせたもの。
辰巳用水は全長約10kmの用水で
 金沢城の防火以外にも城内での生活の水や、
 金沢城の堀のための水にはもちろん、
 農業用水としても利用されていた。
 辰巳用水は東京都西多摩郡の玉川上水、静岡県裾野市の箱根用水とともに
  日本三大用水の1つといわれているが、
  当時掘った隧道が現在でも残っていて使われているのは日本では辰巳用水だけだそうだ。       

生活用水が辰巳用水に入り込むようになったため、
 現在、兼六園に流れる水は、市内を流れる用水とは別に、
  末町の犀川浄水場付近から兼六園専用ルートで取水されているそうだ。

金沢城惣構跡
金沢市指定史跡
金沢市広坂1丁目128番外
撮影日2018/12/9

金沢市の歌劇座に観劇に行った時に、近くにある惣構跡を見る。
  加賀藩ゆかりのキリシタン大名・高山右近が築造に関わったという。

 金沢城惣構跡 (カナザワジョウ ソウガマエアト)
 惣構は、城を中心とした城下町を囲い込んだ堀や、
   堀の城側に土を盛り上げて造った土居などの防御施設
のことである。
 金沢城下町には、慶長4年(1599年)に造られた「内惣構」と
   慶長15年(1610年)に造られた「外惣構」が二重に巡っている。
 造成時の堀は深いところで約5mもあったとされ、
   土居は堀底から最大9mの高さを測ったといわれている。
 明治時代以降、防御線としての機能が失われたため、
   大部分の土居は堀の埋土として使用されて消失した。
 堀部分は、かつてより幅が狭まって用水として使われている。
 内外惣構は、金沢城から見て東西に分かれているため、
   それぞれ「東内惣構」・「西内惣構」・「東外惣構」・「西外惣構」と呼ばれ、
   その延長は約9kmを測る。
 西外惣構跡宮内橋詰遺構は、堀と土居の関係が良好に残る数少ない地点である。
   かつては幅10mあったともいわれる堀は埋め立てられて
   現在堀幅は約4m、深さは約3mとなっているが、
   堀の城側には高さ約2mの土居が残っており、堀底からの高さは約5mを測る。
 400年前の築造当時の姿ではないが、往時の惣構を後世に語り継ぐ貴重な遺構である。
      (金沢市HPから)

市役所南側(二十一世紀美術館の西側)には、西外惣構跡宮内橋詰遺構が残る。

 西外惣構跡宮内橋詰遺構 (ニシソトソウガマエアト クナイハシヅメイコウ)

ケヤキの巨木が根元の盛土と共に残り、
 かつての土居の高さを知ることができる。
橋名は、近くにいた武家の名に由来する。

高山右近が築造に関わったとの記録がある

宮内橋詰の上流側
医療センターの前の辰巳用水とつながっている。

宮内橋詰の下流側

流れが2つに分かれている。
洪水対策として近世、流れを2つに分けたそうだ。
 キリシタン大名・高山右近(1552〜1615)は、摂津・高槻城の城主の子どもとして生まれ、
   織田信長や豊臣秀吉の下で武将や茶人として活躍した。
 千利休の高弟「利休七哲」の一人に数えられている。
 秀吉のバテレン追放令に従わず、領地を没収されたが、
   利家が保護し、客将として金沢に住んだ。
 金沢に26年間滞在したといわれている。
 1614年に江戸幕府の禁教令でフィリピン・マニラに追放され、到着後まもなく死去。

金沢市の文化財保護課のパンフレット「金沢城惣構跡」が
  インターネット上で公開されているので、参考にさせていただいた。

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