北村さんちの遺跡めぐり

射水市  地図g

大塚古墳
富山県指定史跡(昭和40)

射水市(旧大門町)市井屋敷田165
(撮影日2004/11/28)


きれいな形を保つ大塚古墳
直径36.5m・高さ3.5mの円墳だが
北側は段丘の崖になっているので高さ6mぐらいあるように見える。
かつて発掘されたといわれているが、詳細は不明。
明治時代には、近くに5基の古墳があったらしいが、消滅した。


大きく見える北側から見た大塚古墳

大塚古墳の住所の小字は「屋敷田」という。昔は大きなお屋敷があったのかな。

大塚古墳の北約200mの所に、生源寺新十三塚古墳があった。(消滅)
1887年(明治20)ごろに発掘され、高岡市太田産出の太田石を使った横穴式石室が確認された。
石室からは人骨2.3人分、
 金環6、銀環1、勾玉3、小玉1、青丸玉18、太刀1、小刀1、つばの破片2、須恵器1などが出土している。

このあたりには他にも、山王宮古墳群(小円墳30基くらい)、
 五歩一古墳(全長43mの前方後方墳)
などがあるらしいが、
 見学できるかどうかは不明。

大塚古墳のすぐ近くに、国指定史跡「小杉丸山遺跡」というのがあるので、行ってみた。
小杉流通団地の一角が「小杉丸山史跡公園」として保存されている。
飛鳥時代後期の7世紀なかごろの北陸最古の瓦陶兼業窯跡と
 全国的にも発見数が少ない工人の工房跡と住居跡
が発見された。
「飛鳥工人の館」というガイダンス施設もできていて、きれいに整備されていたが、
私達以外には訪れる人もいなくて、さびしいという感じしかしなかった。
このあたりにも古墳群(円墳8)があったが、全て削平された。

串田新遺跡 射水市(旧大門町)串田
(撮影日2007/6/16)



櫛田神社参道
延喜式内縣社で
祭神はスサノオノミコト・クシナダヒメ他11柱
昭和10年に陸軍大臣林銑十郎(石川県出身)
  の書いた碑がある。
8世紀なかばの「越中国東大寺神田」に「櫛田神田」の名があることから、奈良時代から神田を持っていた。


櫛田神社社殿

神馬の馬屋や宝物殿もある。
平成16年10月のの台風で、神木が多数倒れ、
建物にも被害があった。
例大祭には、名前にちなんで櫛が売られるという。

櫛田神社の脇の道を進むと通称大沢山につく。
ここが1973(昭和48)年国指定史跡になった串田新遺跡である。
弥生時代終末期から古墳時代初期の遺跡である。

串田新遺跡全景


北陸の縄文中期後半を代表する「串田新式土器」の標式遺跡となっている。
ここで出土したアナダラ貝による特徴的な模様を持つ土器は1950年、編年上の位置が与えられた。
遺跡の西半分には住居跡7基以上が確認されている。

1972(昭和47)年の調査で3つの小丘が、発生期古墳であることが分かった。

1号墳
直径推定約30m・高さ2mの円墳
中央部に直径約2mの土坑が確認されている。
外周部にはV字溝がめぐる。


2号墳
直径約16m・高さ1.2mの円墳形に復原されているが、
方形にめぐる溝らしいものが確認されている。
1・2号墳は出土遺物から古墳時代初期の築造と考えられている。


2号墳越しに見る景色

3号墳(道路側から)
直径16m・高さ1.2m
未発掘

3号墳
左側(南東部)は山の崖になっているので、
  大きくなって見える
(影の部分)
ほかに墳丘が2基あったが、調査前に消滅したという。
古墳のほか方形周溝墓の一部と思われる溝状の遺構が数ヶ所で確認されている。
古墳と同時期の住居跡も確認されている。

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