北村さんちの遺跡めぐり

小矢部市    地図g  

埴生八幡神社 小矢部市埴生
撮影日2003/5/3

埴生には「倶利伽羅源平の里埴生口」というポケットパークが造られ、
 倶利伽羅峠に付いて学ぶことが出来るようになっている。
遺跡の地図もあり、このあたりを散策する時はまず立ち寄ってみよう。

ポケットパークの横に108段の石段があり、その上に埴生八幡がある。。
(偶然居合わせた子どもたちが数えて少し足りないといっていた…)

埴生八幡神社本殿(国指定重要文化財)
1600年、前田利長が大聖寺出陣に戦勝祈願して寄進した。
戦国から江戸時代にかけての貴重な資料が保存されている。



小矢部市の西側の丘陵沿いには、谷内古墳群・関野古墳群・若宮古墳などの古墳がある。
築造年代は、
谷内16号墳(3世紀前半)→関野1号墳(4世紀中頃)
     →谷内21号墳(5世紀前半)→関野2号墳(5世紀前半)→若宮古墳(6世紀初頭)
と推定される。

若宮古墳 小矢部市埴生字上野
撮影日2003/5/3

埴生八幡から50m南に医王院の山門がある。
その横を抜けたところの墓地の後に若宮古墳がある。

若宮古墳全景
手前が前方部。
全長約50mの前方後円墳
後円部径約28m・くびれ部幅約11m・前方部約19m
6世紀初頭の築造
後円部から前方部を見る。夫の父とともに。
後円部中央に埋葬施設(竪穴式)があり、
 太刀などの副葬品を確認した。
棺の形は不明。
後世は、八幡神社の関連施設として再利用されていたらしい。




谷内古墳群 小矢部市埴生字谷内
撮影日2007/5/6
2008/4/6

八幡宮のすぐ南にある若宮古墳は前方後円墳。
 整備されていて、古墳の周りには大きな説明板がある。
 その説明板には、谷内古墳群・関野古墳群の説明もある。

 谷内古墳群・関野古墳群配置図(参考 谷内古墳群発掘報告書)

谷内16号墳側と4・21号墳側を分断する道路は
発掘当時はなかった。
21号墳は周辺の宅地開発の際
発見されたと思われる。

谷内古墳群
前方後方墳1基(17号墳)
・前方後円墳1基(16号墳)を含む21基が確認されている。
(21基の墳墓群ということだが、この図をみるともっと多いようだ。)


関野古墳群は
前方後円墳1基と円墳6基からなる。
(この図を見ると、
 他に消滅した古墳が3基あるようだ。)

谷内16号墳
(谷内古墳群)
小矢部市埴生字谷内


2007年5月に見つけた谷内16号墳の説明板
後ろの山を登ったところに16号墳と
3基の弥生墳丘墓があるという
(撮影日2007/5/6)
谷内16号墳の説明板のところから急な山道を登る。
どれくらい登ればいいのか分からない。
あきらめようとしたとき、古墳らしい地形を見つける。



16号墳・後円部から前方部を見下ろす

標高150mあたりにある。
(撮影日2008/4/6)



16号墳・前方部から後円部を見上げる。
(撮影日2008/4/6)
谷内16号墳は、昭和62年、発掘調査。
 全長47.56mの前方後円墳
 後円部径22.3m・高さ3.6m
 前方部長さ24.51m・幅14.6m・高さ1.1m
 後円部から南西に幅4m・長さ5mの方形張り出し部があり、
 その延長に幅1.5mの墓道が続く。
 長さ5.45m・幅0.83mの土坑に長さ4.36mの割竹形木棺直葬されていた。
 副葬品は鉄剣・鉄鏃先・鉄鏃。

前方部先端が撥形に開くことや、墳頂部で出土した壺形土器片から北陸最古級の前方後円墳と考えられている。
埋葬施設は(割竹形)木棺直葬でから鉄剣1・鉄鍬先1・鉄やりがんな1が副葬されていた。



発掘時の16号墳

(若宮古墳そばの説明板から)

南方に連なる3基の墳墓は弥生時代の墳丘墓と推定されている。

左奥(南) 13号墳
右      14号墳
(撮影日2008/4/6)


15号墳
(撮影日2008/4/6)

谷内16号墳の北側には、17号墳があるはずだが、
土取りでざっくり削られていて、谷のようになっている。
17号墳は消滅したと思われる。
17号墳は全長36mの前方後方墳。標高182.4m、最高位に位置するところにあった。

谷内21号墳
(谷内古墳群)
小矢部市埴生字谷内

新しい住宅地の端に残されている。

発掘時の21号墳
(若宮古墳そばの説明板から)
1988年に「谷内16号墳」の報告書が出た後、21号墳が発見された。
谷内21号墳は1991年調査
直径30mの円墳
埋葬施設は2基。そのうち1基を調査。
棺床がU字形の木棺直葬で長さ約9.9m・幅約0.8m。
割竹形木棺と見られる。
棺内から三角板革綴短甲1・長方板革綴短甲1・頸甲一式・肩甲一式・革草摺・革盾1の武具類と
 鉄刀1・鉄剣2・鉄鏃40・竪櫛40が出土
墳頂部から土師器片・緑色凝灰岩製管玉・滑石製小玉多数が出土
5世紀前葉の築造と推定

2007年5月の谷内21号墳
(撮影日2007/5/6)
説明板は見当たらない



2008年4月の谷内21号墳
尾根の先端に位置することがよくわかる写真だ。

標高80m付近にある。
(撮影日2008/4/6)

関野古墳群 小矢部市石坂字関野
撮影日2002/5/3
2008/4/6

1・2号墳は1986(S61)年発掘調査されている。

関野1号墳
(関野古墳群)
小矢部市埴生字谷内
撮影日2002/5/3

埴生八幡宮から南西約1km行くと石坂集落に入る。そのまま進むと関野神社に入る。
関野神社を増築しようとしたところ、赤く染まった砂利や銅族が出土して古墳とわかった。

後円部がほとんど破壊された関野1号墳
推定全長65mの前方後円墳
前方部長さ31.5m・幅30.5mだが
後円部はほとんど消滅
埋葬施設、副葬品は不明だが、
 ここから出土したとされる銅鏃が2点現存している。
古墳時代前期(4世紀前半)の築造と
 推定されている。
   (撮影日2002/5/3

関野2号墳〜7号墳
(関野古墳群)
小矢部市埴生字谷内
撮影日2008/4/6


発掘時の関野2号墳
(若宮古墳そばの説明板から)



関野2号墳 南側から
(撮影日2008/4/6)



関野2号墳 東側から
(撮影日2008/4/6)


関野2号墳
径29.5m・高さ3mの円墳
幅5mの舌状の張り出し部がある。
埋葬施設は長さ3.9m・幅0.8m・深さ0.1〜0.2mの墓坑で棺の痕跡は無い。
副葬品として、鉄刀1・鉄剣2・鉄短剣2・鉄鉾1・鉄鏃19・滑石製小玉221が出土。
5世紀前半の築造と推定されている。



3号墳
2号墳の道を挟んで南にある。
(撮影日2008/4/6)
3号墳の後ろに4〜7号墳がある。
写真を写したが雑草・雑木の中の写真なので載せないこととする。

巴塚・葵塚
小矢部市埴生

関野古墳群の西、石川県・富山県の県境にある倶利伽羅では、
 関野古墳群が造営されてから数百年後の1183年春、源義仲が、
 角に松明をくくりつけた牛の群れを先頭に山道を駆け抜け
 平家(大将・平維盛)10万の大群を破った。
これが源平の戦に名高い「火牛の計」。
このときの中心人物「源義仲」の二人の愛妾の名が「巴御前」と「葵御前」である。


源義仲の銅像
埴生八幡宮にある。
(撮影日2003/5/3)
巴塚は自動車の通れる道からかなり入ったところにひっそりとある。

巴塚にいたる道
(撮影日2008/4/6)






巴塚
(撮影日2008/4/6)

碑文
「巴は義仲に従い源平砺波山の戦の武将となる。
 晩年尼となり越中に来り九十一歳にて死す」
由来
「源平合戦の後、和田義盛と再婚した巴御前は豪勇を誇った朝日奈三郎義秀を生んだが、
 その後未亡人となり、後生を福光城主の石黒氏に託した。
石黒氏とは共に倶利伽羅合戦において平軍を攻めた親しい間柄であった。
尼となり兼生と称し宝治元年十月二十二日没し石黒氏が此の地に巴葵寺を建立したと伝えられている。」

葵塚
(撮影日2008/4/6)
巴塚からさらに奥まったところにある。

碑文
「葵は寿永二年五月砺波山の戦に討死す。
屍を此の地に埋め墳を築かしむ」
由来
「葵は義仲の武将となり、倶利伽羅の戦に討死したので屍をこの地に埋め、弔ったと伝えられている。」
巴御前・葵御前は実在の人物なのだろうが、その人生は、小説などで脚色された部分が多いのではないか。
巴御前は知っていたが、葵御前という人は知らなかった。

巴塚・葵塚の付近も関野古墳群の範囲内。
巴塚・葵塚は、元の古墳を利用して作られたものではないか?

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