北村さんちの遺跡めぐり

氷見市  地図g   

大境洞窟住居跡
国史跡
氷見市大境
撮影日2010/3/31

1918(大正7)年、白山社改築のため洞窟内の土砂を取り除いた際に人骨、土器、石器等が出土、調査された。
落盤によってできた遺物を含む地層が、時代別に区別されていて、特に縄文時代と弥生時代のどちらが古いかを実証した
洞窟は標高4mにあり、7000年前の縄文海進期に波の侵食によって形成されたと考えられる。
入口は南西方向を向き、高さ8m・幅16m・奥行34mで内部は次第に狭くなり一番奥に湧き水があった
遺物を含む地層は落盤によって6つの層に分かれていて、下にある層が古い時期となる。
大正7年の調査で詳細な測量図が作成された。
縄文時代の大型石棒や抜歯された弥生人骨や顔面の装飾などが注目された。


白山社の奥に洞窟がある。 
 
洞窟の中にも小さなお社がある。
 

小さなお社の奥にも洞窟は続いている

地層の時代と出土品

 時代  出土品
第1層 鎌倉・室町時代 土師器・陶磁器
第2層 古墳時代後期〜奈良・平安時代 製塩土器・須恵器
第3層 弥生時代後期〜古墳時代前期 弥生土器・土師器・骨製槍先
第4層 弥生時代後期 弥生土器・動物骨
第5層 縄文時代晩期〜弥生時代後期 弥生土器・骨角器・人骨・貝殻・魚骨
第6層 縄文時代中期 縄文土器・石器・人骨・動物骨
カキ・サザエなどの貝殻 石棒

宇波安居寺古墳群
ウナミアンゴジコフングン
氷見市宇波
撮影日 2015/5/6

農作業に行く御夫婦に、山の上り口をたずねるが、上り口は特にないといわれ、
  3号墳の南ふもとあたりから、藪をかき分けよじ登る。
しかし、カメラトラブルで、10枚ほどの写真が消失・・・・・ もう一度、登ろうか?止めようか?

宇波安居寺古墳群 配置図
   (氷見市史より作成)

古墳番号 大きさ 高さ
1号墳 円墳 径29m 3〜3.5m
2号墳 円墳 径24.5m 2m
3号墳 円墳 径28m 2.5〜3m

宇波川の左岸、灘浦小学校北側の丘陵に分布する。

 安居寺山(標高93.6m)から宇波川へ向ってのびる丘陵が
  南から南東へ折れたところを最高所として、
  下降する丘陵に3基の円墳が間隔をおいて立地する。
 最高所の1号墳は標高63.6m、3号墳は44m
 1号墳 最大径29m・高さ3〜3.5mの円墳
  墳頂部の平坦面は東西12.5m南北14m
  墳丘裾には幅5〜8.5mの平坦面が全周し、範囲は径42mとなる。
  尾根方向は両端が堀切で画され、裾平坦面にも西側と南東側に空堀がある。
  この空堀は中世の城館の遺構と考えられている。
 2号墳は1号墳の南東46mにある。この間に2条の堀切をはさむ。
  尾根方向と直交して最大幅が24.5m・尾根方向22mの円墳 高さ2m
  1号墳側の尾根を大きく掘り込み周溝としている。
  墳頂の平坦面15.5×13mと広い(築城のときに削平されたか?)
 3号墳最大径28m・高さ2.5〜3mの円墳
  2号墳側の尾根を深く掘り込み周溝としている。南東側にテラス面がある。
 どの古墳も葺石なし、埴輪なし
 5世紀初頭〜中ごろの築造と推定されている。


宇波安居寺古墳群1号墳 墳丘測量図
  (氷見市史から)



 古墳のある丘陵は安居寺屋敷と呼ばれ、宇波城の城館として中世に利用されていた。
 平成12年市史編纂委員会の踏査で古墳と確認された。

安居寺1号墳

安居寺2号墳

藪の中だが、墳丘は確認できます。

北八代中山古墳
余川川流域の古墳群
氷見市北八代
撮影日 2015/5/6

箭代(ヤシロ)神社背後の丘陵にある


北八代中山古墳配置図
 (氷見市史より)

箭代神社は
 現在阿尾川に向かって開けた谷の中央部に南面しているが、
 かつてはこの背後で谷が二方に分かれた間の丘陵、通称中山にあった。

古墳はこの丘陵南端の円丘頂部に1基だけある。
 付近は墓地。箭代神社の北の山を少し登ったところにある。
標高35,5m、丘陵下の平野部の標高は10m

 北八代中山古墳は 一辺8m・高さ1.5mの方墳
  西側に約3m四方の低い張り出しがある。
  墳丘の周囲は幅3〜4mの平坦面がめぐる。
  墳頂部は浅いくぼみがあるので、盗掘されている可能性がある。  
  古墳からの遺物はなく、築造時期は特定できないが、
   方墳なので、古墳時代前半の可能性がある。
 
北八代中山古墳
 
墳丘上

墳丘手前には、階段や墓石が残っていて、建物があったことを思わせる。

阿尾島田古墳群 氷見市阿尾
撮影日2010/3/31

1999年に発見された古墳群。
その西には稲積オオヤチ古墳群がある。
氷見博物館に寄り、職員の方に登り口を聞く。
公開されている古墳群ではないので、くれぐれも気をつけて行って下さいと念を押され見学に向かう。

阿尾島田古墳群配置図   鏡山(標高90.5m)の東端近くにある古墳群。




A支群
前方後円墳1基
・円墳8基・方墳1基
の10基
  

B支群
円墳3基
(参考 氷見市史・稲積オオヤチ古墳群報告書)

 阿尾島田古墳群データ
A1号墳 前方後円墳 全長70m 後円部径35m・高さ5.5m 
標高59.8mに後円部がある。
A2号墳 方墳 東西14m南北12m・北側高さ2.4m 北側に一辺5m・高さ0.4mのテラス
A3号墳 円墳 径18m・高さ12m  A1側に小さなはり出し(前方部か)
A4号墳 円墳 径30.5m 標高48mにある 2.5〜3mの周壕 頂部平坦面大
A5号墳 円墳 径15m・高さ1m 墳頂平坦面径4m
A6号墳 円墳 径22m・高さ3.2m 西側に5m四方のテラス状はり出し
頂部平坦面12×15mの長円形 A5との間に空堀状の開削がある。
A7号墳 円墳 径20.5m・高さ2.5m A6との間を掘り周壕とした 頂部平坦面径13m
A8号墳 円墳 径12m・高さ1m
A9号墳 円墳 径8m・高さ1m
A10号墳 円墳 径6m・高さ0.8m
B1号墳 円墳 長径12m・高さ1.8m
B2号墳 円墳状 径7m高さ・0.6m
B3号墳 円墳 径7m高さ1m

山の南にある四角いため池の前に駐車、ため池の奥から山に入る。
しばらくは山道があるが、その後は道なき道を登る。

 阿尾島田A1号墳全長70mの前方後円墳
   後円部径35m・高さ5.5m 
   墳頂部に大小2基の埋葬施設が確認された。。
   長さ6.8mの木棺の跡が発見
   人物が葬られたと思われる中央部分の両端に副葬品が置かれていた。

   盗掘にあった形跡がなく鏡やガラス玉などの副葬品が多数出土。
   鉄製の槍1・槍ないし短剣5・長剣1・鉄鏃5・刀子2・ヤリガンナ1・鋤先2・鉄斧1・袋状ノミ・ヤス1
     ガラス製小玉66・石製管玉24・錫製小玉7・ヒスイ玉1・碧玉(ないし緑色凝灰岩)粗割品1が出土。
   出土した弓矢の矢じり部分(柳葉形で長さ7.6cm・幅2.6cm・厚さ0.4cm、重さ24.2g)の形などから
     古墳時代前期の4世紀ごろの築造と推定されている。
   (棺内から 鉄製品20・管玉などの玉類80点)
   (棺周辺から 玉類18・玉類製作途中の碧玉荒割品1など)

   三つまたの形をした鉄製ヤスは現存長11cmで、 北陸では石川県七尾市の例がある。
   鉄槍は、長さ33.6m・最大幅3.6cm・厚さ0.4cmで
   槍の先を柄と固定するための糸巻き部分の特徴から古墳時代初期のものと推定されている。


阿尾島田A1号墳後円部 

     A2号墳から見る
 

阿尾島田A1号墳
   前方部から後円部を見る
 
 
阿尾島田A2号墳 唯一の方墳

阿尾島田A9号墳 径8mの円墳

阿尾島田A4号墳 径30.5m 群中最大の円墳
 大きすぎて全体はなかなか写せない 
 
阿尾島田A6号墳
径22mの円墳

阿尾島田A5号墳 径15mの円墳 

阿尾島田A7号墳 径20.5mの円墳 

現状のままなので、写真ではよくわからない。人間の目で見ると墳丘がはっきり確認できる。

稲積城ヶ峰古墳群 氷見市稲積
撮影日 2015/5/6

西へ行くと「あいやまガーデン」(バラ園)があるので、車は結構通っている。
JA倉庫のふもとに駐車、道なき道をよじ登って1号墳へ・・・・・。


稲積城ヶ峰古墳群 配置図
 (氷見市史より)

丘陵頂部に造られた大型円墳と
 やや離れた小型の円墳からなる。

 番号 大きさ  高さ 
1号墳   円墳  径33m 5m
2号墳  円墳 径8m  

稲積城ヶ峰古墳群は余川川の左岸、
 稲積から指埼へ向う峠の東側にある。
1号墳は標高65mの丘陵頂部にある。

南東には、稲積オオヤチ古墳群がある。


 稲積城ヶ峰古墳群は 平成11年(1999)市史編纂委員会の調査で確認された。
  1号墳直径33m・高さ5mの円墳
   円墳の北西側に続く丘陵が、
   前方後円墳の前方部の可能性があるとして平成12年に再調査して、
    前方後円墳ではないと判断した。
   開墾による改変がある。
   墳頂部平坦面は10×9mの広さがある。
   墳頂部中央には
    30〜40cmの石が数個、北東側には長径15cm前後の礫が見られるが、
    古墳にともなうものかは分からない。
  2号墳径8mの円墳  
 

稲積城ヶ峰古墳群1号墳

かなり立派な墳丘がある。
 
1号墳 墳頂部
 
1号墳墳頂部から 前方部と思われた方を見る

前方後円墳と考えられたこともあったようだが、前方後円墳ではないと判断されている。
確かに、前方部にするとちょっと軸がずれている感じがする。

稲積オオヤチ古墳群 氷見市稲積
撮影日2010/3/31
2010/4/4

阿尾島田古墳群と同じ山の西の支脈にある。
能越道建設でB群が削平されることとなり発掘調査した。

    稲積オオヤチ古墳群 配置図  (報告書から作成)

A1号墳 全長46.5mの帆立貝形前方後円墳
A2a号墳 10.8×8mの方墳
A2b号墳 11×7mの方墳
A3号墳 15×10mの方墳
A4号墳 17.5×15の方墳
A5号墳 全長12.5mの前方後方墳
A6号墳 9.5×4mの方墳
A7号墳 全長23mの前方後方墳
A8号墳 9×9mの方墳
A9号墳 13×5.5mの方墳
A10号墳 10.5×6.5mの方墳
A11号墳 9×7mの方墳
A13号墳 8.5×5.5mの方墳
A14号墳 11.5×7mの方墳
A15号墳 12×10.5mの方墳
B1号墳 13.5×10.7mの円墳
B2号墳 径20mの円墳
B3号墳 径22mの円墳
B4号墳 全長28mの前方後円墳
B6号墳 径8.5mの円墳
稲積オオヤチ古墳群・B支群

稲積オオヤチ古墳群・B支群
    氷見市史では、方墳1基と円墳4基から構成されると考えられていた。

B支群の全域が能越自動車道の調査対象地となり、調査
B支群は尾根の北東から、B1号墳、B6号墳、B2号墳、B3号墳の円墳と
B5号墳とB4号墳を統合した前方後円墳・B4号墳の計5基と確認された

2010年、現説直後に見学に行った。
2014年発行の「加納南古墳群・稲積オオヤチ古墳群 発掘報告書」がインターネットで公開されている。
現在B支群は、ほとんど削平され能越自動車道が通っている。

古墳名 大きさ 周溝  埋葬施設  埋葬施設出土品  外部施設出土品 
B1号墳 円墳 径13.5×10.7m・高さ2.2m 幅0.9m  不明  なし  須恵器・甕 
B2号墳 円墳 径20m・高さ2.4m 幅3.5m  割竹形木棺  なし  煙管 
B3号墳 円墳 径22m・高さ2.5m 幅2m  割竹形木棺  鉄剣、ヤリガンナ、不明鉄製品、
棗玉、管玉、竪櫛
鍬・鋤先・土師器 
B4号墳 前方後円墳  全長28m
 後円部 径15m・高さ2.1m
 前方部 幅16m・高さ2.4m 
 なし 後円部 割竹形木棺  鉄刀・刀子・鉄鏃など 土師器、須恵器、砥石   
組合式木棺
前方部 割竹形木棺 鉄刀・刀子・土師器
B6号墳 円墳  径8.5m・高さ1.4m  幅2.4m  不明  なし  なし 



工事現場の上に見える稲積オオヤチB4号墳


この山が削平された・・・・。

撮影日2010/3/31




B4号墳(前方後円墳)から見たB支群
奥から
B1号墳(山頂手前の白い部分)、
B6号墳
B3号墳  
B2号墳はB3号墳に隠されて見えていない。
左に能越道のトンネルが見えている。
 (撮影日2010/4/4

稲積オオヤチB4号墳(前方後円墳)
手前後円部

 (撮影日2010/4/4

北に前方部があり、前方部が高い

稲積オオヤチB3号墳から見たB4号墳
右手前・前方部  左奥・後円部 

     
(撮影日2010/4/4) 

奥から B6号墳 B2号墳 B3号墳
(撮影日2010/4/4
 
稲積オオヤチB6号墳
(撮影日2010/4/4)
 

稲積オオヤチB1号墳

B支群中最高所にある。
     (撮影日2010/4/4)

 


稲積オオヤチ古墳群・A支群

発掘していないA支群の見学。


稲積オオヤチA1号墳後円部
左手前 前方部

 
帆立貝形前方後円墳

  (撮影日2010/4/4)

古墳群の中で一番大きな古墳で一番高いところにある。

稲積オオヤチA2a号墳   方墳
(撮影日2010/4/4)

稲積オオヤチA2b号墳  方墳
(撮影日2010/4/4)

稲積オオヤチA3号墳  方墳
(撮影日2010/4/4

稲積オオヤチA5号墳
全長12.5mの前方後方墳
(撮影日2010/4/4)

稲積オオヤチA7号墳


全長23mの前方後方墳

   (撮影日2010/4/4)  

尾根上に、古墳が連なっている。
A8号墳まで見て、A支群の西側にある墓地にすべるように下りる。
発掘された古墳と現状のままの古墳の対比がすごくおもしろかった。  

 稲積オオヤチ古墳群データ
A1号墳 帆立貝形
前方後円墳
全長46.5m後円部径36m高さ6.9m 前方部長さ10.5m幅23m高さ1.8m
A2a号墳 方墳 10.8×8m・高さ1.4m
A2b号墳 方墳 11×7m・高さ1m
A3号墳 方墳 15×10m・高さ1.1m
A4号墳 方墳 17.5×15m・高さ2m
A5号墳 前方後方墳 全長12.5m 
後方部一辺9m・高さ0.75〜1m 前方部長さ3.5m・幅4m・高さ0.3m
A6号墳 方墳 9.5×4mの平坦面
A7号墳 前方後方墳 全長23m 後方部長さ15m・幅16m・高さ3m 前方部長さ8m・幅9.5m
A8号墳 方墳 9×9m・高さ1m
A9号墳 方墳 13×5.5m・高さ0.7m
A10号墳 方墳 10.5×6.5m・高さ0.7m
A11号墳 方墳 9×7m・高さ0.5m
A13号墳 方墳 8.5×5.5m・高さ1.1m
A14号墳 方墳 11.5×7m・・高さ1.5m
A15号墳 方墳 12×10.5m・高さ0.4〜1.5m
B1号墳 円墳 13.5×10.7m・高さ2.2m
B2号墳 円墳 径20m・高さ2m 墓壙長さ7.5m・幅1.4m 割竹形木棺長さ6.5m・幅0.6m
B3号墳 円墳 径22m 墓壙長さ5m・幅2.1m 割竹形木棺長さ3.9m・幅0.8m
B4号墳 前方後円墳 全長36m 後円部径20m・前方部長さ16m幅23m
埋葬部@(後円部中央)
 墓壙長さ4.3m・幅1.8m 割竹形木棺長さ3.6m・幅0.8m
埋葬部A(後円部北側)
 墓壙長さ3.2m・幅1.4m 箱形木棺長さ2.7m・幅1m
埋葬部B(前方部)
 墓壙長さ3.7m・幅1.6m 割竹形木棺長さ2.6m・幅0.6m
B6号墳 円墳 径9m・高さ0.8m

A2号墳は2つに分かれ、A2a号墳とA2b古墳になった。
B5号墳はB4号墳とくっついて、前方後円墳のB4号墳となった。  
A12号墳は古墳ではないこととなり削除した。

    稲積オオヤチ古墳群周辺の古墳 (報告書から作成)

加納蛭子山古墳群
上庄川流域の古墳群
氷見市加納
撮影日 2015/5/3・6

加納横穴墓の説明版のあるところから、登る。
加納横穴墓のところまでは遊歩道がついているが、それより上は、よじ登る。
見学は、B3号墳?B2号墳?B1号墳?A1号墳?A2号墳?A4号墳の順だが、
 便宜上A支群から順に紹介しようと思う。

 
支群 名前 大きさ 高さ
 A      1号墳 帆立貝形   全長32.5m 6m
 2号墳  前方後円墳  全長25m 3m
 3号墳  方墳  9.5× 6m  1.2m
 4号墳  円墳  径19m  3m
 5号墳  円墳  径7.5m  1.5m
 B    1号墳  前方後円墳  全長28m 2.5m
 2号墳  方墳  10× 8m 1.2m
 3号墳  方墳  16× 9m 1.5m
 C       1号墳  方墳  5.5×3.5m  0.8m
 2号墳  前方後方墳  全長17m 1.3m
 3号墳  方墳  7.9×6.8m  1.6m
 4号墳  方墳  5.8×4.6m 1.0m
 5号墳  方墳  6.5×4m 0.8m
 6号墳  方墳  11.5×7m 1.2m
 D   1号墳  円墳  径8m 0.5m
 2号墳  円墳  径7m  0.5m

  

 加納蛭子山古墳群は 
 南の上庄川と北の余川川との間にある丘陵・蛭子山の東端部、標高30〜68mのところにある。
 中世には山城として利用されていたが、険しい斜面には加納横穴墓群がある。
 A〜Dの4支群16基が確認されている。
 横穴墓群の発見は大正11年だが、
   古墳群は昭和59年、径30mの円墳や前方後円墳などの5基の発見に始まる。
 平成12(2000)年に計16基の古墳から構成されることがわかった。

 加納横穴墓群と合わせると古墳時代後期から終末期にかけて、
  勢力が維持されていたと考えられている
 A支群は支群中最高所の尾根(標高68m付近)に位置している。
 帆立貝形古墳1・前方後円墳1・方墳1・円墳2の計5基
 帆立貝形古墳は5世紀代前半に、前方後円墳はその後に続いて造られたと考えられている
 A1号墳  全長32.5mの帆立貝形古墳 高さ6m  南側の張り出し部は幅15m
  尾根頂部南端にある。
  張り出し部は西側の墳丘裾にもあるが、
   同方向に大小4面あり、山城の遺構の可能性がある。

墳丘

大きな背の高い帆立貝形古墳だが、
張り出し部はよくわからない

A1号墳墳丘測量図 (氷見市史から)
  

A1号墳墳頂部
  

A1号墳 後円部から前方部を見る

A1号墳  前方部から後円部を見る
 A2号墳  全長25mの前方後円墳(とみられる)  後円部径15m・高さ3m 
  墳丘裾はやせ尾根で不明確な部分が多い
  後円部墳頂には盗掘坑とみられる凹みがある。
  A1号墳との間を溝で区画している。
A2号墳 前方部正面


A2号墳  後円部から前方部を見る

A2号墳  後円部
 A3号墳   9.5×6mの方墳 高さ1.2m
 A4号墳   最大径19m・高さ3mの円墳
 盗掘坑らしいものある。 尾根頂部北端にある。

A4号墳 墳丘

A4号墳 墳頂部

   

 B支群はA支群から南東側へ下降する尾根にある。
  先端近くに標高44.2mの三角点がある。
  前方後円墳1・方墳2の計3基
  支群中の中間レベルの尾根にあり、
  前方後円墳は前方部が狭長でくびれ部が緩やかに移行する様式
    4世紀代初頭の築造の可能性がある。


B支群 墳丘測量図   (氷見市史から)
上から B1号墳、B2号墳、B3号墳

B1号墳前方後円墳
B2号墳・B3号墳方墳

B3号墳は、氷見市史では方墳となっているが、
  北側に前方部らしきものがあるので、
  前方後方墳のように描かれている・・・・?
 B1号墳  全長28mの前方後円墳
  
 後円部幅15m・高さ2.5m 前方部幅7.5m・高さ1m
  前方部が南東に向く。  やせ尾根の幅いっぱいにつくられている。

B1号墳 前方部から後円部を見る

B1号墳 後円部から前方部を見る
 B2、B3号墳はB1号墳の南東側に連接し、尾根を分断するように造られた方墳。
 B2号墳     10× 8mの方墳

B2号墳 墳丘

B2号墳 墳頂
 B3号墳
  16× 9mの方墳だが、北側に前方部らしきものがあり、前方後方墳の可能性もある。

B3号墳 墳丘

B3号墳 墳頂に三角点がある
B3号墳  後方部から前方部を見る。



(前方後方墳だとしたらだが・・・)

  

 C支群はB支群の下方で、北東方向へ折れ下降するやせ尾根の標高30mあたりに
  前方後方墳1・方墳5の6基が一列に並ぶ。
  各古墳は、幅5.5〜7mの尾根幅いっぱいに造られた長さ4〜8mで連接している。
  C2号墳全長17mの前方後方墳とみられ 前方部幅6.5m・後方部幅5.5m・後方部高さ1.3m
 C支群は低位にあり、丘陵のやせ尾根に連接する。
  全体に小規模、低平な墳丘で、弥生時代終末〜古墳時代初頭の可能性
 D支群はA支群から北東側へ下降する丘陵の標高50mあたりにある
  径7〜8m・高さ0.5mの低平な小型の2基の円墳で、6世紀代の可能性がある。

藪の中だ・・・・・。

加納横穴群
市史跡
氷見市加納
撮影日2003/5/3

大正11年に発見され、58基が確認されている。
穴の形態は隅丸正方形のものが多く、天井は田アーチ型のものと、ドーム型のものが見られる。
玄室内に4つの棺台がある横穴もある。
直刀・刀子・金環・瑪瑙勾玉・水晶切子玉・碧玉製管玉・ガラス製小玉や
須恵器・土師器・古銭などが出土。(行方不明が多いらしい)
6世紀後半〜7世紀末ごろの築造と推定されている。

2010年の加納横穴墓群

横穴墓その1

その1の内部

横穴墓その2

横穴墓その3

横穴墓その4

横穴墓その5

横穴墓その6

その6の内部

色々な形があるなあ・・・。

石室の内部は、水たまりになっていて、卵が浮かんでいる。
何の卵か調べたら「クロサンショウウオ」とわかった。

2015年の加納横穴墓群

2回目の訪問となる。

 加納横穴墓群は 
  余川川と上庄川に挟まれた丘陵の東端、通称蛭子山の中腹、標高10〜40mの範囲にある。
  58基確認されているが、未開口のものもほかにあると考えられている。

  基本的に、玄室と羨道から構成される。
  玄室平面形は隅丸正方形のものが主体で、平均奥行2.33m・平均幅2.38m
  立面形はドーム型とアーチ型がある。
  排水溝・礫床・壇・棺台といった施設が一部にみられる。
  羨道は長さ0.4〜0.5mと短いものが主体である。
  羨道入口(羨門)上部に段々の刻みをほどこした横穴墓が14基確認されている。

  遺物としては
   碧玉製管玉2・滑石製小玉4・ガラス製小玉128・勾玉5・切子玉4・耳環類14・魚形1などがある。
   土器は多くが散逸しているが、須恵器12が、氷見市立博物館に保管されている。

 背後の尾根には蛭子山古墳群がある。
 この丘陵は長期間にわたって墓域として利用されていたと考えられている。
 横穴墓は、追葬も考慮すると、6世紀後半〜7世紀末から8世紀初めの築造と推定されている

加納横穴墓群分布図



(氷見市史から
昭和39年・氷見高校歴史クラブの発表)

横穴墓その1

横穴墓その2

横穴墓その3

横穴墓その4
 大正11年(1922)、土地所有者により横穴墓が発見され、調査、38基が確認された。
 昭和24年(1949)、30基の実測調査
 昭和29年(1954)、東21号の発掘調査
 昭和34年(1959)、38基の横穴墓の実測調査
 昭和48年(1973)、西22号・西23号の発掘調査
 昭和48年に市史跡となる。

前回の見学のときと全体の雰囲気は同じだ。

 泉古墳群
泉往易古墳群

上庄川流域の古墳群
氷見市泉
撮影日 2015/5/3・6

泉古墳群と泉往易古墳群は、同じ泉丘陵の北西部分と北東部分にある。

宮袋社そばに駐車して、「泉地区古墳群散策コース」という説明板を、探したが見つからず・・・。
(実はこの説明板は、泉往易古墳の登り口にあった。)

仕方なく、泉1号墳(高塚古墳)を目指すが、道がない・・・。
草をかき分け、崖を上り、たどり着いたが、説明板も見て来なかった・・・・・。

泉1号墳は、泉往易古墳のふもとの案内板のところから道が続いている。
もう一度登り直して、ようやく説明板発見!

      泉古墳群・泉往易古墳群 配置図(イメージ図) 氷見市史から作成

以前は、全体を泉古墳群としていたが、
 平成12年(2000)の市史編纂委員会の踏査で、新たに10基発見されたことで、泉古墳群と泉往易古墳群に分けた。
元の泉19・20号墳を泉往易1・2号墳、新たに発見された10基が泉往易3〜12号墳となる。

 泉古墳群 
1号墳
(高塚
)
円墳
又は
帆立貝形
長径43m・短径41m・高さ6.25m
または 全長54m・幅45m・高さ7〜8m
または テラスをもった長径45mの円墳
  どこまで墳丘とするかが判別しがたい
墳頂平坦面は長径20m
墳頂部は中央近くと北西側に落ち込みがある。
段築は確認できない 葺石なし 埴輪なし
2号墳 円墳? 南北29m・東西23m 墳頂平坦面は長径13m
3号墳 円墳 径12.5m・高さ2m  
4号墳 方墳 19×17.5m・高さ2m  
5号墳 方墳 17×16m・高さ1.5m  
6号墳 円墳 径8.5m・高さ1.2m  
7号墳
 (猫塚)
円墳 径20m・高さ2m 大正年間(1912〜1916)開墾により遺物が出土と伝えられている
現在は周囲が削平され、不整形な形
8号墳 不明 道路の開削面に周溝断面が露出  9号墳に接する古墳と考えられている
9号墳
 (鶏塚)
円墳 長径12.5m・短径11.5m・高さ1.3m
墳丘裾を平坦面が廻る
泉古墳群では最も低い位置にある。
大正年間(1912〜1926)、開墾により遺物が出土
水晶切子玉・ガラス製小玉・碧玉製及び滑石製管玉・土器
6世紀代の後期古墳
10号墳 円墳 径10m・高さ1m 自然地形の可能性あり
11号墳 円墳 径10m・高さ1m 自然地形の可能性あり
12号墳 円墳 径10m・高さ1m  
13号墳 円墳 径10m・高さ1m  
14号墳 円墳 径9m・高さ0.6m  
15号墳 円墳 径9m・高さ0.6m  
16号墳 円墳 径20m・高さ1.5m  
17号墳
(鶴塚
)
円墳 径35m・高さ4.5〜5m 大正時代に発掘
勾玉数個・人骨・小玉30数個・直刀2・鉄鏃塊・土器数点が出土
したが、行方不明となっている
18号墳 円墳 径10mのマウンド 自然地形の可能性あり
19号墳 方墳 一辺9m・高さ1.5m  
20号墳 方墳 一辺9m・高さ1.5m  
21号墳 方墳 一辺11m・高さ2m  
22号墳 前方後方墳 全長25m 前方部長さ7m・幅7m
 後方部長さ18m・幅17m・高さ2.8m
くびれ部幅6m
 
23号墳 円墳 径18m・高さ1.2m 自然地形の可能性あり
24号墳 円墳 径10m・高さ0.8m  
25号墳 円墳 径20m・高さ2m  


 泉往易古墳群
1号墳 円墳 径10m・高さ1m以下の円墳  
2号墳 円墳 径10m・高さ1m以下の円墳  
3号墳 方墳 11.5m・高さ1.5m 尾根先端側にテラスがある。
4号墳 方墳 11.5m・高さ1.5m  
5号墳 方墳 一辺7.5m 大半削平
6号墳 前方後円墳
(帆立貝形)
全長26m
前方部長さ7m・幅9m・高さ1m 
後円部径18m・高さ3.5m
前方部を南に向ける
西側が大きく開削されている
7号墳 不明 土塁状の一部が残るだけ  
8号墳 方墳 7×6m・高さ1.2m  
9号墳 方墳 一辺9m・高さ1.2m  
10号墳 方墳 一辺12m 城郭の遺構の可能性
11号墳 方墳 一辺10m 城郭の遺構の可能性
12号墳 前方後方墳 全長37m 前方部長さ12m・幅14.5m 
 後方部幅24m・高さ3m
 

泉1号墳は、 最初に紹介するが、泉往易古墳群ふもとから、山道をゆっくり歩いて約20分、一番最後に見学する古墳。
1号墳だけに説明板があり、墳丘もしっかり観察できる。

 泉1号墳 (高塚古墳)は  高塚山山頂にあり、 泉古墳群中最高所に位置する。 (標高83m)

泉1号墳(高塚古墳) 
  南から見る 

  





頂上に大きな墳丘!



泉1号墳
  南東から見る






泉1号墳 墳丘図
 (氷見市史から)

長径43m・短径41m・高さ6.25m
または 全長54m・幅45m・高さ7〜8m
または テラスをもった長径45mの円墳

  どこまで墳丘とするかが判別しがたい

 泉2号墳は、1号墳を北へ一段下った標高72mにある

2号墳


雑草が繁茂している

 泉9号墳は  鶏塚ともいわれている。  道路脇。民家の横にある。



9号墳
 

はっきりした墳丘
 泉12〜15号墳は  宮袋社の背後につづく標高約22mの細長い丘陵にあり、
     やせ尾根上の丘陵幅いっぱいに4基の円墳が並ぶ



泉12〜15号墳のある丘陵
  南から見る
左から  12〜15号墳の順に並ぶ。




近年発掘調査され、遺物が出土したらしい。
(農作業中の男性の話から)

泉12号墳
 

泉15号墳
 

手前より泉14号墳、13号墳
 泉16〜18号墳は丘陵の西縁にあり、開墾のため改変を受けている。

泉16号墳 径20m・高さ1.5mの円墳

泉18号墳 径10mのマウンド 自然地形の可能性
 泉17号墳
 径13m・高さ1.5mの円墳とみられてきたが、円形にめぐる段や小道などから、
  元は径35m・高さ4.5〜5mの円墳と推定されている
 大正11年(1922)、上庄村の役場の依頼を受け、泉の青年団により発掘された。
  勾玉数個・人骨・小玉30数個・直刀2・鉄鏃塊・土器数点が出土したが、行方不明となっている



泉17号墳 南東から見る。


  鶴塚ともいわれている
  
 泉21・22号墳は、2号墳から北へ下降するやせ尾根の鞍部を越えた小さい丘上に南北に並んでいる。



泉21・22号墳 墳丘測量図

上から 21号墳、22号墳







泉21号墳


 一辺11m・高さ2mの方墳
 西側裾と南側裾にテラス面がある
 泉22号墳は、 標高33mにある 全長25mの前方後方墳。    改変されていてわかりにくい。

泉22号墳 後方部から前方部を見る (南から)

泉22号墳 前方部から後方部を見る (北から)

次は泉往易古墳群の紹介です。

泉往易古墳群古墳群のふもとにある案内板

青色線や赤色線で示された遊歩道があるが、
  現在は黄色線で示してある道しかないようだ・・・・・・



 泉往易1・2号墳は丘陵北端に位置する。


泉往易1〜2号墳

泉往易1号墳

泉往易2号墳
 泉往易3〜5号墳は山頂部から北東方向へ下降する尾根に一列に並ぶ方墳




泉往易5号墳



よくわからない・・・・・
 泉往易5・6・7号墳


泉往易5・6・7号墳墳丘測量図

6号墳は 全長26mの前方後円墳
   前方部を南に向ける
後円部と前方部の比高差が大きい小型の前方後円墳で、
前方部が短い帆立貝形古墳ともいえる。
標高63mの山頂にある。

「往易古墳」の標柱の上の段の
更に上に、泉往易6号墳がある。

泉往易6号墳 前方部脇から後円部を見る

泉往易6号墳 後円部脇から前方部を見る

泉往易6号墳 後円部から前方部を見る

泉往易8号墳
山頂平坦面の南端に一段下がった位置にある。

泉往易9号墳
尾根の斜面にある
 泉往易12号墳
 全長37mの前方後方墳 前方部を南に向ける
 斜面にあるので、墳丘裾は同一レベルで廻らない。
 後方部後端の尾根側との区画溝は浅い
 前方部と後方部の比高差が大きく、後方部墳頂が後端に片寄っているので、
      城郭関連の遺構という見方もある。

泉往易12号墳 後方部側

泉往易12号墳 前方部側から後方部を見る

泉往易6号墳の手前の3・4・5号墳は、よく分からない
10・11号墳もよく分からない(段状テラスが連続するものだそうだ)
全体的に、藪になっているので、草刈りをしないと、よく分からない・・・・・・。

中村天場山古墳
ナカムラテンバヤマコフン
上庄川流域の古墳群
氷見市中村
撮影日 2010/4/4

平地に小さな島のようになった地形がある。

中村天場山古墳の位置
(氷見市史から)

上庄川の中流域左岸、平野中央部の丘陵に位置する。
平野部を東西に横切る国道415号線の南に見える小さな丘陵が天場山。
山頂に三角点があり、標高は27.5m。

平野部の標高は14m

丘陵は東西に細長く、古墳のある西側が山林
中央部が墓地、東側が畑地となっている



北から見た天場山


農地の中にある独立丘陵

この林の中に古墳がある。
 中村天場山古墳は、単独墳で 32mの前方後円墳
  前方部長さ12m・幅12m・高さ2.2m 
  後円部20m・高さ1.5m・幅18.5m くびれ部幅10m
  前方後方墳の可能性も残っている

中村天場山古墳墳丘測量図
  (氷見市史から)

中村地区の天場山の丘陵西側の最高所にある。
単独で造られている。
近接する中村神社の丘陵にも古墳は確認されていない。



 丘陵の東西尾根方向に主軸を合わせ、最高所を後円部として、前方部を東に向けている。
 後円部は尾根幅いっぱいで、最大幅がくびれ部寄りにあり、後端側にすぼまる。
 後円部後端は直線状で墳丘傾斜もやや急である。
 後端墳丘裾から西側へ約11mの平坦面があり、
  テラス状となるが後世の開削と考えられている。
 後円部からくびれ部にかけては直線状にくびれ、
   主軸と平行する部分を少しおいて前方部前端に向け墳丘裾が大きく広がる。
 前方部両側のコンターは主軸方向に平行である。
 前方部前端は緩く弧状に膨らむ。


墓地の西側に墳丘が残っている

前方部前端のところかな



後円部の墳丘

   

速川神社古墳群
上庄川流域の古墳群
氷見市新保・早借
撮影日 2015/5/3

滝尾山の南側ふもとから神社入口まで、車道が続いている。歩きを覚悟していたが、助かった。



速川神社古墳 配置図
(氷見市史から)

古墳番号 大きさ 高さ
1号墳 円墳 径24m 2〜3m
2号墳 円墳 径8m 0.6m
3号墳 円墳 径13m 1.3m
4号墳 円墳 径10m 1m
5号墳 方墳 11×11m 2m
6号墳 方墳 16×11m 1.5m
7号墳 方墳 12×10m 2m
8号墳 方墳 14×11m 1.5m

上庄川と早借川の合流地点の標高は14mである。
滝尾山の最高部は標高90.2m。

 速川神社古墳群は 上庄川と早借川の合流地東側に続く滝尾山の丘陵に分布する。
  滝尾山の山頂には延喜式式内社速川神社がある。
  古墳は速川神社の背後にあり、山頂部南西に最大規模の1号墳
  社殿をはさんで4基の円墳が並ぶ。
  そこから北西に下る丘陵尾根にには、標高68〜62mの間に4基の方墳が一列に並び、
  丘陵先端部北側の急崖には新保横穴群がある。


  
滝尾山山頂の1号墳は  径24mの円墳で、高さは西側3m・東側2m 
    (上庄谷側からの見かけが大きい)
   墳丘裾に平坦面が廻る。墳頂部には長径10mの広い平坦面がある

  3号墳は径13m・高さ1.5mの円墳
  5〜8号墳はやせ尾根に連続してつくられた方墳で、6〜8号墳の墳頂を尾根道が通る。

  昭和62年(1987)の古墳群踏査により発見された。

  中世のころ、神仏習合の坊舎が周辺に多くあったという伝承から、
   坊舎の基壇であったものがあるかもしれない。 

滝尾山南ふもとの速川神社鳥居

速川神社社殿入口の鳥居



速川神社社殿

社殿背後の左側に1号墳
  右側に3号墳



速川神社1号墳 南から見る

速川神社1号墳 東から見る

速川神社3号墳 手前は2号墳 西から見る

速川神社3号墳  南から見る

社殿建設で、墳丘が削られているような感じがするが・・・・・
5〜8号墳は、ジャングルになっていて入って行けず、見学断念・・・・・

朝日貝塚
国史跡
氷見市朝日
撮影日2010/3/31

大正7年に誓度寺の建築中に貝層や土器片などが発見された。
縄文時代前記〜中期の遺跡。


誓度寺
左端の赤い屋根が遺跡の保存舎
背後の森には朝日潟山古墳群がある。


寺院が焼失した大正13年に、再建までの機会を利用して再調査したら、
日本で初めて炉跡のある住居床面が確認された。





縄文時代の住居床面が2棟分発見され、
 保存舎で保存されている。

保存舎地点では、深さ2mまでの間に15〜30cmの海水産貝類を主体とする貝層が2層確認されている。
ハマグリ・アサリ・アカガイなどや
マダイ・クロダイ・マグロなどの魚骨
ヒメウ・ミズナギドリなどの鳥骨
イルカ・イノシシ・ニホンジカ・イヌ・ツキノワグマ・ニホンアシカなどの獣骨が出土した。

生活道具では縄文土器・磨製石斧・石錘・石皿・石匙・石鏃・浮石など石器も多数出土。
信仰の道具では
耳飾り・石棒・硬玉(ひすい)製大珠などが出土
装飾飾把手付深鉢(バスケット型土器)も出土
埋葬されていた5体の人骨も出土
硬玉製大珠も出土

朝日貝塚の背後の山には朝日潟山古墳群がある。
朝日貝塚のすぐ北に朝日長山古墳(全長43mの前方後円墳)があったが、消滅した。
朝日長山古墳のすぐ北には、朝日寺山古墳がある。

上日寺
ジョウニチジ
氷見市朝日本町
撮影日 2015/5/6

氷見市の中心街にある。
上日寺の大イチョウは有名だ。

 上日寺
  高野山真言宗の寺。山号は朝日山。
  本尊は閻浮檀金(エンブダンゴン)といわれる1寸8分(約5.5cm)の千手観世音菩薩。
  創建は681年(天武天皇10)、開基は法道上人と伝える。
  かつては七堂伽藍が完備し、18坊を有した大寺であったが、
   数度の火災により、現在は
   江戸時代の本坊(銀杏精舎(ギンナンショウジャ)、観音堂など数宇を残すのみである。
  銀杏精舎の名は、白鳳10年当寺創建の際、観音菩薩を安置し、
   イチョウがその霊木として伝えられることに由来する。
 上日寺のイチョウ
  樹齢1300年、樹高36m、幹回り12m。大きさでは日本でも屈指のものである。
  4月下旬雌花を開き、秋には多くのぎんなんをつくる。
  地上3〜5mのあたりから大小無数の気根が垂れている。
   その先端が削られているのは、乳の出ない母親が乳の出るようにと祈り、
   煎用するという民間信仰のためである。
  乳授けの霊木といわれ国の天然記念物

上日寺

上日寺のイチョウ

上日寺 本堂

上日寺 地蔵堂



上日寺と朝日寺山古墳群の位置
(氷見市史から)

朝日寺山古墳群
1号墳  径38〜40mの円墳
2号墳 一辺8mの方墳
3号墳 径10mの円墳


朝日寺山古墳群の南には、朝日長山古墳があった。

朝日寺山古墳群

上日寺の境内の奥から、藪をかき分けて古墳群のある丘に上がる。
竹林となっている。

 朝日寺山古墳群
  旭山丘陵の東端、真言宗の古刹上日寺境内南側の通称寺山に3基からなる。
  上日寺背後の丘陵上には氷見高校があり、
   そこから南東方向へ延びるやせ尾根先端を大きな溝で切断して大型円墳の1号墳を作っている。 
   標高40m。
  1号墳の南側裾には墳頂から約7m下ったところに崖に接して2号墳がある。
  さらに南東側へくだった標高25mレベルに3号墳がある。

朝日寺山1・2号墳 墳丘測量図、復元図
 (氷見市史から)

左下の四角いのが2号墳

植林以前は開墾されていて、
改変が激しく、段状に造成されている。
  1号墳は 径38〜40mの円墳と考えられている。
  2号墳は 一辺8m・高さ1mの方墳  南側が欠損
  3号墳は 径10m・高さ1.5mの円墳
 1号墳北側裾には中世の五輪塔が数基あり、以前にここから珠洲焼骨臓器も出土していることから、
    上日寺の中世墓地の一部としての改変もあったと考えられている。
 平成8年(1996)に発見された。
 平成11年(1999)に測量調査。遺物は確認されていない。

朝日寺山1号墳 墳丘



朝日寺山2号墳 墳丘

杉の植林がされていたというが、竹のほうが多い。

朝日長山古墳 氷見市朝日本町
撮影日 2015/5/6

氷見市史では、この朝日長山古墳の詳しい説明がある。
朝日長山古墳は、前方部を北東に向けた前方後円墳だったが、
 現在は前方部の一部を残すのみでほとんどが消滅している。

 朝日長山古墳は  全長43mの前方後円墳
  後円部径25m・高さ3m 前方部長さ18m・高さ3m

朝日長山古墳墳丘復元図
  (氷見市史から)

朝日寺山古墳群のある丘陵から南に下り屈折した所にある。
標高20m。

後円部は墓地で削られている
埴輪が墳頂部を巡っていたと考えられている。
 石室は後円部の後端寄りにあり、竪穴系横穴式石室と考えられている。
  外部の大きさは、北東から南西長さ7.1m、南東から北西幅は北東端で3m、
  中央部で2.6m、南西端で2.4m
  内部は長さ5.8m・幅0.9m・高さ1.3〜1.4mで、
  石室内は床、壁、天井がベンガラで赤く彩色されていた。
 石室内出土遺物
   鉄製品・・直刀、刀子、短剣、鉾、鉄鏃、鉄環
   金銅製品・・杏葉、冠帽 金具、鞍、鋲など
   玉類・・管玉、小玉
   須恵器・土師器
 6世紀前半の築造と推定されている。
 昭和25年、氷見高校歴史クラブが古墳の石室を発見、
 昭和27年・昭和49年の2回発掘調査。
 昭和44・46年には、円筒埴輪と形象埴輪が確認されている。
 昭和47年第二次調査

消滅していなければ、柳田布尾山に匹敵する史跡になっていただろう。

朝日潟山古墳群 氷見市朝日本町
撮影日 2015/5/6

朝日貝塚のある誓度寺に駐車して、潟山の南裾側へ向かう。
山裾をすこしずつ削り住宅が建てられているようだ。

朝日潟山古墳群 位置
  (氷見市史より)

1号墳は 前方後円墳
 (前方後方墳かもしれない)
南西の山裾で、山に上がる階段を発見!


擁壁を分断するようにある階段を
 上がると、古墳がある。


山上は鳥(鷺か?)の住処となっているらしく、
 怪獣のような鳴き声が響いていて、
 地面は糞で白くなっている
 朝日潟山古墳群は  仏生寺川の下流左岸、朝日丘の通称潟山にある。
 古墳群は潟山の南端部標高21〜25mの尾根に立地し、前方後円墳1・方墳1がある。
  平野の標高は約3m

朝日潟山古墳 測量図

   (HP富山市歴史探訪から)
1号墳全長34mの前方後円墳
 後円部の長さ20m・同高さ2.2m
 前方部の長さ14m・同高さ1.8m
 前方部の幅16.5m、くびれ部幅9.5m
 前方部を北北西に向ける  葺石なし
 開墾による改変があり、古墳の形をわかりにくくしている。
2号墳は 14m×12mの方墳
 1号墳から17mはなれていて、
 やせ尾根を直交方向の大溝で画していて、長軸を尾根方向にとる。
 昭和56年に発見され、平成5年に測量調査。

1号墳 前方部から後円部を見る

1号墳 後円部から前方部を見る


1号墳から2号墳(?)を見る


2号墳の向こうには
 市街地がひろがる。


 潟山の東裾には、国指定史跡・朝日貝塚があり、
    縄文時代前期から中期のほか、弥生時代終末期から古墳時代、古代、中世にわたる。

竹が生えていて、墳丘がよく見えない状態だ。



 西部
柳田布尾山古墳
やないだぬのおやまこふん
氷見市柳田
撮影日2002/4/7
2003/5/18
2006/4/9

2003年5月18日
 1998年に発見されて、100mを越す前方後方墳として、新聞をにぎわした。
 一度見に行きたいと思っていた。
 氷見の市街地から東南に約3kmのところに柳田と言う所がある。
 大きなパチンコ店と道路を挟んで横に老人ホームの建物がある。
 その裏山がこの古墳だ。



整備前の柳田布尾山古墳・全景

            ( 撮影日2003/5/18)

大きいので全体を撮るのが難しい。
2枚の写真を合成してようやく出来た写真だ。
林のすき間から墳丘が見える。

築造から1600年も経っているとは思えないほど、きれいな形をとどめている。

整備前の柳田布尾山古墳・くびれ部附近
           ( 撮影日2003/5/18)
後方部には盗掘の穴があいている。
発掘調査が行なわれたが、
注目されるような出土品はなかったようだ。




整備前の柳田布尾山古墳
   
後方部から前方部を見下ろす

         ( 撮影日2002/4/7)
石川県の秋常山古墳を思い出されるきれいな墳形である。
後方部の埋葬施設のあたりがビニールシートに覆われている。

2006年4月9日、公園になった布尾山を見に行ってきた。

柳田布尾山古墳配置図

柳田布尾山古墳
全長107.5mの前方後方墳

後方部の長さ54m
・幅53m・高さ10m
前方部の長さ53.5m・幅49m・高さ6m
古墳の周囲に空濠を巡らす。
3世紀末〜4世紀前半ころの築造と推定されている。

柳田布尾山2号墳は  直径25mの円墳
 1号墳との間に幅約5m・深さ約1.6mの周濠がめぐっていた。
 中心部は発掘されていないため詳しいことは不明。

整備後の柳田布尾山古墳  (撮影日2006/4/9)

国道160号線から見た柳田布尾山
工事現場の向こうに見える

柳田布尾山古墳を南西から写す

柳田布尾山古墳・周濠の様子

柳田布尾山古墳
後方部頂から前方部を見る

柳田布尾山古墳・後円部
埋葬施設を表示

柳田布尾山2号墳
1号墳後方部墳頂から

公園の中には、古墳館があり氷見市の遺跡について説明がある。
きれいになった柳田布尾山だが、遺物がほとんど発見されなかったのは、とても残念。

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