北村さんちの遺跡めぐり
高岡市 地図g
桜谷古墳群 さくらだにこふんぐん |
高岡市太田字桜谷 撮影日2003/5/18 |
天晴海岸から山の方へ行ったところ、二上山の北西側に海に接するかのように、桜谷古墳群がある。
古墳時代前期の終わりごろから後期まで連綿と古墳が作られてきたことが調査の結果わかってきたようである。
桜谷2号墳から富山湾を望む
眼前に氷見平野が広がっているが、
築成当時はすぐまじかに氷見湖があったと推定されている。
配置図
元は諏訪社があった場所で、銅鏡・碧玉が出土して古墳と判った。
調査の結果、前方後円墳2基、円墳7基が確認され、前方後円墳2基(5世紀初頭以前の築造と推定)が保存された。
出土品は、碧玉製紡錘車・同石釧・同管玉・花文鏡・金環・金製帯金具・刀・土師器・須恵器・人骨など多数。
桜谷1号墳
「私」は後円部(左側)に立っているけどわかるかな?
古墳の上部だけ整備されているので、平べったく見える。
桜谷1号墳は 全長62mの前方後円墳
前方部幅30m・高さ5.45m、後円部径35m・高さ6m。
5世紀初めの築造と推定されている。。(古墳時代前期の終わり〜中期初め)
桜谷2号墳から見た1号墳
桜谷2号墳
全長50mの帆立貝式の前方後円墳、
前方部幅不明・高さ1m、
後円部径33m・高さ6m。
4世紀末から5世紀初めの築造と推定されている。。
(1号墳より少し古く前期の終わりごろ)
墳形はくずれて、巻貝のような形をしている。
3号墳 | 1号墳の西に接する台地先端部にあった。 金環5・ガラス小玉17・刀剣破片7・土師器杯・人骨など出土 古墳時代後期の築造 |
4・5・6号墳 | 1号墳と2号墳の間の谷に面した円墳だったが、内容不明のまま消滅 |
7号墳 | 太田石を用いた石室があったらしいが、人知れず破壊 鉄鏃・金銅製帯金具が出土。 古墳時代中期後半 奈良県の新沢千塚126号墳出土の帯金具とモチーフが似ている。 |
8号墳 | 大田石を用いた横穴式石室(全長6.7m幅約1.7m)を持つ。 |
9・10・11号墳 | 詳細不明 |
昭和52年、1.2号墳の横に道路が通ることになり、調査をしたところ、
新たに円墳1基と箱式石棺2基が発見され、その上に陸橋をかけて保存した。
陸橋の下に保存された円墳 52-1号墳 保存するためだけにこの陸橋が造られた。 おもしろい! 2つの箱形石棺が確認された。 石棺材は太田石 鉄矛1・金環が出土 6世紀の築造と推定されている。 (古墳時代後期前半) |
国分山古墳群 | 高岡市国分 撮影日2010/4/4 |
国分山には岩崎鼻灯台があるがこの周辺に古墳群がある。
11基確認されたが、5基残っている。
国分山古墳群配置図
詳しい調査書は見れていないので
何号墳かは特定できない
残っている古墳も特定できないが・・・・・
A墳は灯台の西隣にある古墳だろう。
A墳は1951(S26)年に調査後、灯台建設で破壊。
長径30m短径28m・高さ2mの円墳
ベンガラを敷き詰めた2基の埋葬施設を確認。
第1主体部から、径9.8cmの獣形鏡1・直刀1・鉄鏃が出土
第2主体部から
径10.5cmの内行花文鏡1・勾玉1・鉄鏃が出土
土内から土師器の壺が出土
A墳の周りには径9〜16mの円墳が4基ある。
G墳は直径30m・高さ3.8mの円墳
G墳の周りには径14〜16mの円墳が2基ある。
参考「日本の古代遺跡・富山」(保育社)
この図をみると前方後方墳もあるようだ。
灯台のすこし手前で「国分山古墳群」の説明板も発見。
「国分山古墳群」の説明板 |
岩崎鼻灯台 昭和26年完成 現在は電話回線を利用して 灯火をコントロールしている。 伏木海上保安部が管理している。 |
灯台の東側にある円墳(と思われる) |
前方後方墳の並ぶ尾根 北側から 山道の南側に前方後方墳2基も残っている。 そばまで行って見たが、 雑木の中で、写真は難しい。 |
前方後方墳の東の2基の方墳は見当たらなかった。
城光寺古墳群 | 高岡市城光寺 |
現在、二上霊園や運動公園となっている背後の山にも古墳がある。
運動公園西側にある大きな駐車場から山に続く遊歩道がある。
途中まで上ったが、かなり荒れた状態になっているようなので途中であきらめる。
山頂には径36m・高さ4.5mの円墳と2基の小円墳があるそうだ。
城光寺から東の矢田の丘陵にも古墳がたくさんある。調べてまた見学したい。
板屋谷内古墳群 | 高岡市五十里(板屋) 撮影日2010/3/31 2010/4/4 |
前方後円墳・板屋谷内A1号墳が五十里(板屋)地区の諏訪社の境内のすぐ西にある。
板屋集落の東端に小さなトンネル(五十里トンネル)がありその上に保存されている。
古墳のあるところに道路が作られることとなり、古墳を保存するためにトンネルが造られたそうだ。
トンネルの東に行くと「諏訪社」と刻まれた石碑と神社に続く階段。
諏訪社に上がる石段
(撮影日2010/4/4)
散歩している男性が石段下で手を合わせて通り過ぎていった。
階段を上ると小さな社がありその横に板屋谷内A1号墳が・・・・。
かなり崩れていて、古墳だといわれないとわからない。
諏訪社から見た板屋谷内A1号墳の後円部
(撮影日2010/4/4)
前方後円墳ということが明らかになっているが、
以前いわれていたように前方後方墳のように削られている。
板屋谷内A1号墳
前方部から後円部を見る。
(撮影日2010/4/4)
板屋谷内A1号墳
後円部から前方部を見下ろす。
(撮影日2010/4/4)
A1号墳は 全長51mの前方後円墳
56年度試掘調査
墳裾から鉄剣1と土器が出土、
西山丘陵の最古期の古墳に位置づけられている。
(以前は板屋1号墳と名づけられ、前方後方墳とされていた。)
A1号墳の西側にはA支群の円墳が4基あり、その西にB支群の方墳が続く。
板屋谷内 仮A2号墳 (A1号墳の西1番目)
(撮影日2010/4/4)
円墳
板屋谷内 仮A3号墳 (A1号墳の西2番目)
(撮影日2010/4/4)
円墳
板屋谷内 仮B1号墳 (B支群東から1番目)
階段がついていて斜面には墓がある。
方墳
(撮影日2010/4/4)
板屋谷内仮B2号墳 (B支群東から2番目)
方墳
板屋地区には諏訪社と諏訪神社がある。
板屋地区の真ん中にある諏訪神社に行く。
諏訪神社正面
(撮影日2010/3/31)
諏訪神社の背後の山によじのぼる。
古墳らしい高まりが並んでいる。
円墳や方墳が連なっている。
古墳名は特定できないがテラスがあるようなりっばな古墳も見ることができる。
諏訪神社背後にある古墳
板屋谷内 B支群中ほどの古墳 その1
(撮影日2010/3/31)
諏訪神社背後にある古墳
板屋谷内 B支群中ほどの古墳 その2
(撮影日2010/3/31)
諏訪神社背後にある古墳その3
板屋谷内 B支群中ほどの古墳 その3
(撮影日2010/3/31)
西の端は能越道に下りる長い階段がある。
階段を半分下りたが、自動車専用道を人が歩くわけに行かず、集落側に何とか下りる。
B支群の西側には、現在能越道が通っているが、この場所にはかつて板屋谷内古墳群C支群があった。
能越道で消滅する事となったB支群2基とC支群5基が、平成16年発掘調査された。
ギリギリで残った 板屋谷内B14号墳か?
この向こうは削られて、崖の下には能越道が通る
板屋谷内古墳群配置図
板屋B・C古墳群は西山丘陵から平野部に張り出した支丘上にある。
C古墳群はB14号墳の西南約100mの尾根上に位置。
円墳3基方墳2基を調査
C古墳群では周溝がある。
発掘された板屋谷内B・C古墳群データ | |||
B13号墳 | 円墳 | 径26m | 墓壙1基確認 墓壙は長方形の穴で組合式木棺があったと考えられる。副葬品はなし。 地震により古墳の大部分が壊れていることがわかった。 表土から鉄斧1・鉄刀3・刀子1・須恵器などが出土したので 墓壙の東側にもう1基の墓壙の存在が想定されたが確認できず。 出土した須恵器から古墳時代中期後半の築造と推定。 |
B14号墳 | 円墳 長楕円形 |
南北25m 東西20m |
後世の開墾により棚田や竹林となっていて墳形をとどめていない 大きさは推定 |
C1号墳 | 円墳 | 径24m | 割竹形木棺があったと推定される墓壙の底の部分を確認。 木棺の底の部分に40×80cmの範囲で赤色土が認められ この周りからヤリとガラス玉が出土 墳頂は標高65.7mでB・C群で最高所に位置 |
C2号墳 | 円墳 | 径15m | 尾根側に最大幅3mの溝がめぐる(西側は未調査) 墓壙は中世の土坑が重複していて詳細は不明 |
C4号墳 | 方墳 | 一辺18m | 墳頂で割竹形木棺を納めたと考えられる墓壙を確認 墓壙内で方形鍬・鋤先1、水晶製勾玉・緑色凝灰岩製管玉が出土 |
C6号墳 | 円墳 | 径17m | 表土の流出や樹木の根で荒れていたが、墓壙の一部を確認 試掘調査時に銅鏡(珠文鏡)、調査時に銅鏡(内行花文鏡)と鉄剣1が出土 棗玉234・管玉27・勾玉3・琥珀丸玉2 ・ガラス管玉1ガラス小玉15などの玉類も出土 |
C7号墳 | 方墳 | 一辺12m | C6号墳の下18mの支丘先端に位置 墳丘の全てを失っている。 コ字状にめぐる溝から方墳と推定 周溝から赤く塗られた古墳時代前期の壺が出土 |
高岡市の北西部に広がる西山丘陵に立地
立山古墳群 見多気神社 |
高岡市五十里(板屋) 撮影日2010/4/4 2010/6/1) |
板屋谷内古墳群の西南、八口地区にある見多気神社の辺りにも古墳群がある。
平地に張り出した小さな尾根にあるので見学しやすいかと思い、行ってみる。
見多気神社のある山
北東から
撮影日2010/4/4
東側のふもとから階段を上ると社殿がある
見多気神社
この神社の木造の狛犬は県指定文化財となっている。
撮影日2010/4/4
社殿の後にある円墳
撮影日2010/4/4
社殿の後にある円墳
違う角度から
(撮影日 2010/6/1)
6月1日もう一度この場所へくる。
立山古墳群遠景
(撮影日 2010/6/1)
南側から
道路の右側が見多気神社のある森
左側が前方後円墳のある森
見多気神社の西側の山に上ってみる。
急な坂道を少し上ったところに前方後円墳があった!
立山古墳群前方後円墳の前方部
(撮影日 2010/6/1)
遊歩道がつくられているが、道の真ん中に竹が生えている。
竹を切らないと来年は道がなくなる。
立山古墳群前方後円墳の後円部
(撮影日 2010/6/1)
人間の目で見るとはっきり分かるのだが
写真ではむずかしい・・・
「日本の古代遺跡・富山」(保育社)に
「月野谷古墳」と名づけられているのがこの古墳ではないかと思う。
全長65mほどの大きな古墳だとされている。
立山古墳群と男撲古墳群
男撲古墳群 水道つつじ公園 |
高岡市笹八口 撮影日2010/6/1) |
立山古墳群の大きな前方後円墳から遊歩道が西に続いているようだが、分からないので
いったん山を下り、西の水道つつじ公園に行く。
1979(昭和54)年に国吉配水場を建設したときに「つつじ公園」をつくった。
私達が行ったのは6月初めだったが、ちょうど花がほとんどない時期で残念だった。
つつじ公園案内図
大きな丸い貯水タンクの北側に
「遊歩道入口」と書かれた案内板があり、
すべりそうな坂を少し上れば、
男撲古墳群の前方後円墳の前方部から後円部につながる。
男撲古墳群はオヤドンコフングンと読むそうだが、
どうしたらこんなふうに読めるのかフシギ!
男撲古墳群前方後円墳の前方部
上りきったところが後円部
途中ササユリも咲いている。
男撲古墳群・前方後円墳の後円部
丸い大きな平坦な後円部にはベンチが2つ置かれている。
長い間使われていないように見える。
一つのベンチはひっくり返っている。
男撲古墳群前方後円墳の後円部から東の方墳を見る。
遊歩道が立山古墳群に続いているのか?
方墳から前方後円墳後円部を見る。
人間の目で見るとはっきり分かるのだが写真ではむずかしい・・・
下向田古墳群 シモムクタコフングン |
高岡市福岡下向田 撮影日2015/4/23 |
富山県高岡市の通称「西山」と呼ばれる小矢部川左岸の段丘に、古墳群や横穴群があると知っていた。
見学できるものはないかなと調べていたら、下向田古墳群が福岡公園の中に保存されているとわかった。
下向田古墳群は、町民公園建設に先立つ分布調査で発見された(昭和53年ごろ)。 |
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下向田古墳群配置図 (福岡町民公園内にある 福岡町歴史民俗資料館前の案内板から) 1〜4号墳・7号墳の試掘調査が実施された。 2号墳は23m×26mの方墳で、 古墳群中最大だと判明した。 遺物が出土していないので、詳細は不明だが、形状から古墳時代後半の築造と推定されている。
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山菜とりの人たちしか来ないのかなあ、かなり草が生えている。
芝生広場から見た古墳群
芝生広場の奥に公園案内図があり、
その横の階段を上がったところに、
古墳群の説明板がある。
(写真中央)
1号墳 |
7号墳 |
2号墳 |
3号墳 |
4号墳 バーベキュー広場となる |
6号墳 |
9・10号墳の辺り |
8号墳 東屋の北にある。 |
福岡霊園(墓地)周辺にある5号墳と11〜15号墳も、霊園建設の時に調査されているのではないかと、
インターネットで調べてみるが、何も見つからない・・・
高岡市のすばらしいところは、
山の中の古墳群に続く遊歩道がつくられていること。
トンネルを作って古墳を残そうとすること。
遊歩道などは、もっとみんなが歩いてくれればいいなと思う。
氷見市には「氷見市史」 高岡市にはHP「高岡市遺跡一覧表」があり
場所が特定できるので、見学がしやすくなった。