北村さんちの遺跡めぐり
更新日2011/8/28
新潟県上越市の遺跡
と富山県入善町・じょうべのま
その1・上越編撮影日2011/6/18
高速料金上限1000円が終わる前にもう一度、ドライブに・・・と
急に思い立って、初めての新潟県へ。
自宅を出発したのが、午前10時ごろだったので、上越ICに着いたのはお昼頃。
ICそばのイオン内のサイゼリヤで食事の後、水科古墳群へ。
水科古墳群 国史跡 |
上越市三和区水科 撮影日2011/6/18 |
田んぼの中にポコンポコンと古墳が見える。この後見学する宮口古墳群も見える。
1976年国史跡指定
水科古墳群遠景 北から
径10〜15mの34基の円墳のみの群集墳。
7世紀の築造と推定されている。
水科古墳群配置図 (古墳辞典から)
右側に道路がある。
青い枠の中が史跡公園となる。
飯田川扇状地の右岸扇頂部、標高50m付近に分布する後期古墳群。
昭和初年頃発見され、1975年に発掘調査。
その結果32基の古墳が確認され、1979年の調査で新たに2基が発見された。
墳丘の上半部は既に開田時に削平されて旧形状をとどめていない。 埴輪はない
石室は河原石を積み上げて側壁を作る無袖型の横穴式石室で、
最大規模のものは21号墳で、全長8.6メートル、幅90センチ、玄室内は石敷である。
石室全長1 m前後の超小形石室(第4 、20 、23 、28 、30 、33 号墳)などもある。
小さいものは子ども用か成人の二次葬用の可能性がある。
副葬品は、直刀、刀子、金環、滑石製小玉などが石室内から出土している。
直刀・刀子・金環・銀環・滑石製勾玉・滑石製小玉・水晶製切子玉
・琥珀製棗玉・ガラス小玉と須恵器の甕・提瓶・椀・蓋などが出土。
人骨には火葬の跡がある。
(参考:新潟県立歴史博物館HP・古墳辞典・埋文にいがたHPなど)
水科古墳群入口
史跡保存のために全体に30cmの土を盛り墳丘・石室が復元されている。
発掘調査が完了しているものは墳丘を高くし、
調査が古墳の確認だけのものは低くして表示してある。
石室が見られるのは、11号墳・21号墳・30号墳(拡大復元)
説明板があるのは、11号墳・14号墳・19号墳・21号墳・30号墳
左 2号墳 右 3号墳
手前4号墳
径1m位の小さな円墳
奥は左端から
2号墳・3号墳・9号墳・11号墳
左 13号墳 右7号墳
後に見えるのは
5・6・32・34号墳のあたり。
左 19号墳 右 14号墳
19号墳では羨道入口の左右1mの外脇から
墳丘域を示す周溝がある。
11号墳 |
11号墳 径12mの円墳 幅4m・深さ0.9mの濠をめぐらしている。 |
11号墳石室入口 横穴式石室は長さ5m・幅0.8mで 奥壁は高さ0.9mの大きな石を使っている。 入口は多くの河原石でふさがれていた。 |
11号墳石室内部 玄室の床には 0.2mほどの扁平な石が敷き詰められている。 玄室内部から 刀子、金環、勾玉、切子玉、棗玉、琥珀玉・ガラス小玉など 羨門前庭部から提瓶、坩、蓋、 墳丘裾部から つぼ・さら・ふたなどのかけらが入った大型の水筒形の須恵器が出土した。 |
21号墳 |
21号墳 古墳群の東北端に位置 径20m・高さ推定5mの円墳 幅5m・深さ0.8mの濠がめぐる。 墳丘は45度の角度で築かれている。 |
21号墳 羨道外端から外護列石状に河原石の葺石を持つが、 横穴式石室開口部の前面だけで、 背面はめぐらさない その外側に周溝ををめぐらしている。 |
21号墳石室内部 横穴式石室は長さ8.6m・幅0.8mで群中最大規模 入口は河原石を積んでふさいでいる。 玄室の床は扁平な河原石で敷き詰められている。 奥壁に直刀2振りが立て懸けられた状態で出土。 他に、 刀子、滑石製勾玉、滑石製小玉、ガラス小玉、 金環、銀環、須恵器の台付碗 などが出土。 |
14号墳
径9.5mの円墳
幅2m・深さ0.5mの濠をめぐらしている。
横穴式石室は長さ3.85m・幅0.55m
玄室と羨道の境には石を立てて玄門とし、
床には細長い石を置いて間仕切りとしている。
羨道は河原石をつめてふさいでいる。
玄室床は扁平な河原石が敷き詰められている。
奥壁付近から焼けた骨と滑石製小玉が出土。
30号墳
石室を観察できるように大きく復元されているので
変な形の古墳となっている。
本来は
長さ1.06m・幅0.3mの
小さな横穴式石室をもつ小さな古墳。
石の積み方や床の石の敷き方はほかの古墳と同じ。
出土物はなし。
宮口古墳群 国史跡 |
上越市牧区宮口 撮影日2011/6/18 |
宮口古墳群
手前22号墳、奥21号墳
手前13号墳 奥12号墳
宮口古墳群 左から15、14、13号墳
中央が11号墳
11号墳から金銅装円頭大刀が出土。
11号墳出土の金銅装円頭太刀の図 (歴史資料館でいただいた資料)
把間に点刻で表現した渦巻状の唐草文を施している。
7世紀頃の日本製大刀に共通した手法だそうだ。
古墳模型
「模型」ってどういう意味なのか?
石室が3基復元されているが・・・・・。
説明がない・・・。
水科古墳群と宮口古墳群は500mぐらいしか離れていない。
何が違うのか?
水科古墳群は全て水田の中にあり、狭い所に密集して34基もの古墳がある。、
宮口古墳群は水田の中にある古墳もあるが、山の中にも古墳があり、一つ一つの古墳がゆったりとつくられている。
保存のしかたや見せ方も違うようた。
現在はどちらも上越市だが、
水科古墳群は旧中頸城郡三和村大字水科
宮口古墳群は旧東頸城郡牧村大字宮口。
行政区の違いが保存方法の違いになったのではないかな?
石造仏頭3箇 県指定文化財 |
上越市三和区水吉 撮影日2011/6/18 |
「石造仏頭」の案内板が出ているので行ってみた。案内があってもわかりにくい。
山裾に石仏が「堂百地蔵宮」というお堂の中に保存されている。
堂百地蔵宮
中央の小さな建物の中に仏頭がおさめられている。
もとは大きい建物があったようだ。
お堂の格子戸の間から内部を見る
鎌倉時代に三和区付近で採掘される大光寺石(凝灰石)を用いて彫刻されたと推定されている。
観音菩薩、阿弥陀如来、地蔵菩薩の3つの石仏。
通称「首切地蔵」と呼ばれている。
中央が阿弥陀で高さ73cm
右が地蔵で高さ53cm
左が観音で高さ71cm
これほど大きな仏頭は全国でも4、5体しかないという。
地蔵は、江戸時代に水吉地蔵屋敷から移された。
如来と観音は、水吉字堂百を開田したときに出土したものといわれている。
造られた時代から差し込み式石仏(肩から下は自然石でできており、
それにこの仏頭を差し込み祭った)と推定されている。
(参考:上越市HPなど)
初めての新潟県はここでおしまい。
一般道を西へ。
道の駅「うみてらす名立」、「親不知ピアパーク」などを散策しながら、
富山県の「じょうべのま遺跡」へ
「じょうべのま遺跡」のページへつづく