北村さんちの遺跡めぐり
更新日2015/4/8
群馬県・2014
その14 安中市②2014/11/21~24
11月24日 4日目。最終日、午後の部その2。
安中市の地図g
コンビニ弁当の昼食後、野殿天王塚古墳へ
野殿天王塚古墳 市指定史跡 |
安中市野殿 |
市街地からそんなに離れたわけではないが、山の中という感じの所にある。
でも、場所が特定できているので、すぐ見つかった。 13時20分 着。
野殿天王塚古墳は 「上毛古墳総覧」の碓井郡岩野谷村56号墳にあたる。 径15mの円墳 高さ5.5m 周辺は耕作のためかなり削られているので元は径20mほどか。 葺石あり 埴輪あり 南に開口した両袖形横穴式石室は安山岩の乱石積み 玄室の奥壁が古墳の中心にくるようにつくられている。 全長11.18m 玄室長さ5.1m・高さ2.2m 幅は奥壁2.25m・中央部と袖部では2.3m 奥壁は大石を2個使用している。 羨道長さ6m 幅は玄室に接する所が1.5m・前方で1.1m 副葬品は未詳 石室の構造から、高崎市の八幡観音塚古墳の影響が見られ 7世紀初めの築造と推定されている。 昭和38年調査 (説明板から) 野殿天王塚古墳の石室 (古墳辞典から) |
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南西から見た墳丘 中央右寄りに石室が開口しているのが見える |
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横穴式石室開口部 |
石室内部 |
玄室から羨道を見る |
羨道奥から外を見る |
説明板を読むと、羨道部分が二つに分かれているみたいだ。
玄室が奥室と前室に分かれているのはいくつか見たが、羨道に二つの部分があるのは初めて見た。
安中町第4号墳 市指定史跡 |
安中市安中字横町 |
安中保育園の後ろにあるので、園横の駐車場に駐車させていただいて見学。
墓地と民家に囲まれている。
墓地の横を通り抜けると赤い社殿がある。 13時55分 着。
安中町第4号墳は 径30m以上の円墳 高さ4m以上 墳頂に稲荷社がある 横穴式石室は全長8m 羨道長3.45m・羨道奥幅1.07m・羨道前幅0.97m・高さ1.3m 玄室長(西壁)4.38m (東壁)4.6m・高さ(奥)1.74m (前)1.7m |
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北から見た墳丘 稲荷社の土台となっている。 |
階段の横に横穴式石室が開口 |
南向きに開口 柵があるが、中にはゴミが・・・・ 右にあるベンチは石室の石材か? |
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石室内部 |
石室から外を見る 天井はコンクリートで補強されている。 |
安中町第7号墳 市指定史跡 |
安中市米山 |
市役所のすぐ北にあるが、知らないと見逃してしまいそう。
市役所は休日で閉まっているが、すぐ南側にトイレがあるので、使わせてもらった。
安中町第7号墳は形や大きさは不明である。 |
墳丘 何かの土台かなと思う。 墳頂には石碑がいくつか建てられている。 |
安中愛宕神社古墳を探していたら、民家の庭に墳丘を発見!
これが安中愛宕神社古墳だと勘違いしてしまった・・・・・・
有坂病院の東の民家の庭にある。
どう見ても古墳?
愛宕神社があるから愛宕神社古墳だから、勘違いするはずがないのに・・・
安中愛宕神社古墳はスルーしてしまった・・・・・
安中町第6号墳 新島襄旧宅 市指定史跡 |
安中市新屋敷 |
新島襄の旧宅として、安中市指定史跡となっている。見学の人もいる。
庭に横穴式石室が開口している。 14時25分 着。
新島襄旧宅 | |
新島襄の両親が江戸からここに移り住んだもので、2軒長屋のうち新島家が住んでいた部分を移築し、 西半分は復元した。 新島襄がアメリカから帰国した1874年からしばらく、ここに住んでいたという。 |
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新島襄は、1843年(天保14)に安中藩士の子として江戸藩邸で生まれた。 ペリー来航に刺激されて海外渡航を志し、1864年(元治元年)に密航して米国に渡航した。 このときキリスト教に接し、大学卒業後、アンドバー神学校で神学も学んだ。 滞米中に岩倉具視らの使節団が訪米し、これを側面から援助している。 帰国後、新政府の出仕を断り、キリスト教の伝道にたずさわり、 京都の同志社英学校の開設に尽力した。 |
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新島襄旧宅 |
新島襄先生之碑 新島襄先生の業績を簡潔に記述した石碑 この基礎の石材は、古墳のものではないのかな? |
安中町第6号墳 | |
新島襄旧宅の庭に横穴式石室が開口している。 |
羨道の上部が開口している。 |
奥壁手前には鳥居がある。 |
石室内部から外を見る |
簗瀬二子塚古墳 市指定史跡 |
安中市簗瀬字八幡平 |
整備中だ・・・・。
作業している人にお願いして、墳丘に立ちいらせていただいた。
14時45分 着。
簗瀬二子塚古墳は 墳長80mの前方後円墳 後円部径50m 前方部幅60m 2段築成 葺石あり 周堀は馬蹄形で、内堀、外堤、外周溝がある。墓域全長は130mとなる。 墳丘上に円筒埴輪列がある。盾形埴輪もある。 簗瀬二子塚古墳測量図 (古墳辞典から) 後円部基壇面南側に両袖式横穴式石室がある。 最古の横穴式石室の一つと考えられている。 石室の構成石は、全体に小ぶりで内壁を赤くぬっていることなど、 竪穴式石室の構築法を受け継いでいる 石室全長11.5m 玄室長4.07m 玄室床面は旧地表上にあり、開口部はテラス上面にあるので、 狭い羨道は階段式に下がり、玄室につながる。 (入口から玄室にかけて2段に約1m下がる構造) 馬具(鉄地金銅製辻金具)、直刀、鉄鏃、須恵器、土師器、 銀製垂飾付耳飾、勾玉など玉類多数が出土 6世紀初頭の築造と推定されている。 |
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簗瀬二子塚古墳 左・前方部 |
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前方部から後円部を見る |
後円部から前方部を見る |
布多古塚碑 後円部上には明治期の発掘記念碑がある。 当時は「布多古塚」と呼ばれていた。 明治19年と刻まれている。 |
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後円部にある横穴式石室 入れない |
石室入口脇から前方部を見る。 |
簗瀬八幡平の首塚 市指定史跡 |
安中市簗瀬字八幡平 |
簗瀬二子塚古墳の西隣に首塚がある。
「簗瀬八幡平の首塚」として、市指定史跡となっている。
簗瀬八幡平の首塚は 碓井川北岸の河岸段丘上に位置する 旧原市町12号墳(円墳)の墳丘に幅1m・長さ2mの穴を掘り、 そこに、およそ150体分の頭蓋骨を埋めてあったものである。 昭和6年、墓参りに来た小学生によって偶然発見された。 その後、昭和27年の調査の結果、 古墳の石室の外側に150個の頭蓋骨が積まれ、 その上に天明3年(1783)の火山灰が覆っていることが分かった。 不思議なことに、頭骨には下顎がなく、他の部位の骨も発見されないので、 どこか別の場所に埋葬されていたものをここに仮葬したと推定される。 人類学的には、中世の日本人の特徴を持ち、 刺傷もあるので、戦国時代の戦の犠牲者と考えられている。 当時、遺体をまとめて埋葬したものを、江戸時代中期かそれ以前に村民により発見されて、 ここに改葬されたものと思われる。 いつころ造られたものかを示す資料は残されていない。 永禄4年(1561)武田信玄がこの付近に八幡平城を築き、安中城と松井田城を分断、 松井田城主・安中忠政、安中城主・安中忠成の親子は、 箕輪城主・長野氏に属し、武田信玄と戦っていたという歴史がある。 |
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簗瀬八幡平の首塚 |
祠の内部 |
西横野17号墳 市指定史跡 塚原古墳群 |
安中市松井田町人見 |
のどかな田園の中に古墳がポツポツ・・・・・ 15時10分 着。
西横野17号墳は、前方後円墳ではないかとみられている。 現在は東西8m・南北6mの墳丘が残る。 横穴式石室がある 石室長さ4.9m 前幅0.8m・奥幅1.25m 高さ1.6m |
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墳丘 石室が露出している 明治から昭和初期にかけて バクチ場として 利用されていたという。 そう言えば、四国に バクチ場古墳というのがあった ゴミ入れになっている… |
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石室内部は完存している! |
石室内から外を見る |
石室内部は完存している! |
石室内から外を見る |
西横野17号墳の南には3基の古墳がある
奥 24号墳
手前中央 19号墳
右 アパートの手前に半分写っているのが18号墳
西横野10号墳 塚原古墳群 |
安中市松井田町人見 |
塚原古墳群の代表となる西横野11号墳の北にある10号墳の見学。
西横野10号墳は、墳形は明らかではないが、昭和24年に偶然石室が発見され発掘調査 横穴式石室は 玄室長さ3.2m 前幅1.8m・中幅2.1m・奥幅1.75m 高さ1.8m 羨道長さ2.2m 幅0.8~1mの両袖形 人骨3体、直刀、勾玉、耳環などが出土している。 |
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墳丘らしいものがあるので、 探したら石室が開口していた・・・ |
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石室の中から竹がニョッキリ!! |
石室内部 |
本当はこの西横野10号墳のすぐ南側にある西横野11号墳を見に行ったのだが、
先に10号墳が見つかってしまったので、おかしいと思いつつも、見逃した。
11号墳は塚原塚ともいわれていて、大きな石室が露出しているというが、・・・・・・・
前を通ったはずだが、気が付かず・・・・・・石室は何かで隠れていたのではないか?・・・・・・・
以上、群馬の古墳の紹介が終わりました!
15時49分、松井妙義ICから、高速道へ
16時ごろ 横川SAで、おみやげを買い、
17時ころ 更埴JCT 通過
17時50分ごろ 妙高SAで 休憩
18時20分ごろ 上越JCT 通過
19時25~50分 有磯海SAで 夕食
20時52分 白山ICで高速下りる
21時過ぎに 帰宅 全走行距離は 1114.2kmとなる。