北村さんちの遺跡めぐり
更新日2014/3/10
群馬県・2014
その11 高崎市③2014/11/21~24
11月23日 3日目。午後の部その2。 吉岡町の古墳見学後、高崎市へ。
金古愛宕山古墳 市史跡 |
高崎市(旧群馬町)金古 |
石室が見学できる古墳へ。 午後2時半ごろ 着。
駐車スペースあり。 説明板あり
金古愛宕山古墳は 径40mの円墳 高さ4m (現状で径30m) 前方後円墳との説もある。 南東に開口している両袖形横穴式石室は 自然石の乱石積みで、 全長9m 玄室長3.2m・奥壁幅2.1m・高さ2.3m 6世紀末~7世紀前半の築造と推定されている。 昭和10年の調査では、金古地区には111基の古墳があったと報告されているが、 その中で最も保存状態がよいものである。 (説明板ほか) |
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南西から見た墳丘 墳頂に愛宕神社の社殿がある 説明板の右に石室の入口がある。 |
石室入口付近は 後世の改変と考えられていて、 左に少し曲がって石室につながる。 |
南東に開口する石室 |
羨道部 |
奥壁 隅丸方形っぽい石材が積み上げられている。 |
玄室から開口部を見る 玄門が立派だ。 |
南下B号古墳によく似た横穴式石室だ。
史跡 上野国分寺跡 コウズケコクブンジアト 国史跡 |
高崎市東国分町・引間町 |
すぐそばを通ったので、見学することとする。 駐車場完備。
史跡範囲が広いので、走り回る。
史跡案内図 (説明板から)
741年(天平13年)、聖武天皇は仏教の力による国家の安泰を目指し、
国ごとに僧寺と尼寺を建立する詔を発した。
上野国分寺のその一つ。
その後は次第に衰退し14世紀後半には廃絶したと考えられている。
1926年(大正15年)に僧寺跡が国の史跡に指定され、
1980年(昭和55年)から発掘調査、
1988年(昭和63年)から史跡整備が行われている。
復元された築垣 南から見る |
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塔基壇 大木の後ろに復元 |
塔基壇上 奥に金堂基壇が見える |
金堂基壇 |
金堂基壇上 |
元島名将軍塚古墳 市史跡 |
高崎市元島名町 |
前方後方墳の見学。 午後3時45分 着。
「将軍塚古墳 付、周壕出土の底部穿孔壷形土器等一括資料」として高崎市指定史跡となっている。
将軍塚古墳 神社駐車場あり 全長96m 前方部上の島名神社社殿。
元島名将軍塚古墳全体図 (説明板から) 前方部に島名神社が鎮座している 全長96mの前方後方墳 後方部幅51m・高さ8.6m 前方部幅40m・高さ4.7m 周堀は不定形で、深さ0.3mほど、 周堀を含めると全長150mとなる。 葺石なし 4世紀後半の築造と推定されている 明治44年、 後方部から偶然、埋葬施設が発見された。 墳頂下約2mにあって、全長1.8m・幅0.6m、 中から人骨のほか、獣形鏡・石釧・太刀・ヤリガンナなどの副葬品が出土 昭和55年度の発掘調査では、 墳丘から転落したと思われる 底部穿孔壺形土器・S字状口縁台付甕形土器などが周堀から多量に出土 |
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東から見た墳丘 左が前方部 |
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後方部脇から前方部を見る 奥(北)の 前方部上に社殿がある。 |
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前方部にある島名神社 左手前のくびれ部には、すべり台。 |
前方部から見た後方部 くびれ部は削られているので、 分断されたように見える。 |
くびれ部から後方部を見る 後方部頂がくぼんでいる。 くびれ部は平らになっている |
後 後方部のこのくぼみから、 明治時代に埋葬部が発見された。 奥が前方部。 |
綿貫古墳群 |
高崎市綿貫町 |
二日前に、日暮れてしまい、よく見学できなかったので、もう一度訪問。 午後4時 着。
でもやはり、日暮れ近くて、綿貫観音山古墳は夕日に染まる。
二日前に取った写真も合わせて紹介する。
綿貫古墳群は、群馬県立公園群馬の森の北側にある綿貫町周辺にある。
大型前方後円墳の普賢寺裏古墳、不動山古墳、二子山古墳、観音山古墳、
円墳の普賢寺東古墳(消滅)などがある。
綿貫古墳群の地図g
綿貫古墳群の前方後円墳の築造順 | 時期 | |
普賢寺裏古墳 | 全長77mの前方後円墳 | 5世紀前半 |
(岩鼻)二子山古墳 (消滅) | 全長120mの前方後円墳 | 5世紀中~後半 |
不動山古墳 | 全長94mの前方後円墳 | 5世紀後半 |
観音山古墳 | 全長97mの前方後円墳 | 6世紀終わり |
(岩鼻)二子山古墳は 現在の群馬の森公園内にあったが、1914年(大正3)に土砂採取で消滅。
地籍図から推定すると、
全長120mの前方後円墳 後円部径68m
前方部幅72m
盾形の周堀あり 中堤・外堀がある
消滅する時に、刳り抜き式長持形石棺と副葬品が発見・調査され、現在東京国立博物館に保管されている。
5世紀中~後半の築造と推定されている。
普賢寺東古墳は 不動山古墳の後円部東北方向の外堀外縁に近い所にあった。
径30mほどの円墳 竪穴式石室があり、馬具などが出土した。
1954年消滅した。
不動山古墳 市史跡 綿貫古墳群 |
高崎市綿貫町 |
綿貫古墳群の現存の前方後円墳のうち、一番南にある古墳 東側にある旧コンビニの駐車場に駐車。
前方部も削られて、駐車場になっているが・・・・。
説明板あり
墳頂の案内板の文字がしゃれている!
不動山古墳 不動山古墳の墳丘と石棺 (古墳辞典から) 全長94mの前方後円墳 後円部径54m・高さ10.1m 後円部墳頂径18m 前方部前幅55m・高さ9.1m くびれ部幅36.5m 西に前方部 東に後円部 北側のくびれ部には方形の造出がある。 葺石あり 後円部上に不動尊をまつっていることから、不動山古墳と名付けられている 後円部はかなり削られている 舟形石棺の身が残されているが、蓋は所在不明。 長さ3.45m(突起を含む)・幅1.4m・高さ0.82m 昭和37~39年の調査で、埴輪、鉄製鍬先、土師器が出土している。 造出には埴輪列がある。 5世紀後半の築造と推定されている。 |
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南から見た墳丘 左・前方部 前方部は、近年 削られて低くなってしまった。 |
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後円部上り口 墳頂には不動尊がまつられている |
墳頂に置かれた舟形石棺の身 大きい! |
普賢寺裏古墳 綿貫古墳群 |
高崎市綿貫町 |
不動山古墳と観音山古墳の間にある。
普賢寺の北側に大きな墳丘が残っているようだが、藪となっていてよく見えない。
普賢寺裏古墳は 全長77mの前方後円墳 埴輪が出土 主体部は未調査 形や埴輪から5世紀前半の築造と推定されている。 群中4基の前方後円墳の中で最初に築造された。 |
南から見た前方部 右に後円部があるが、 本堂後ろで見えない |
東から見た後円部 向こう側に前方部がある。 藪です… |
綿貫観音山古墳 国史跡 綿貫古墳群 |
高崎市綿貫町 |
観音山史跡公園として、整備公開されている。
駐車場があるが、閉じられている。 そばに学習館があるが閉館している。
学習館の前に駐車。
説明板は充実している。
綿貫観音山古墳 観音山古墳平面図 (説明板から) 全長97mの前方後円墳 後円部径61m、前方部端幅64m 高さ9.5m すべて盛土でつくられている。 二重の盾形周堀がある 周堀を含めた全長は178m・幅143mとなる。 葺石なし 2段築成 中段と墳頂部には埴輪列がある。 後円部テラスに南西に開口する両袖式横穴式石室がある。 横穴式石室図 (説明板から) 石室全長12.65m、 玄室長8.12m・奥壁幅3.95m・奥壁高さ2.68m 羨道長4.53m・羨道奥幅2.4m・羨道奥高さ1.39m 入口幅1.34m・入口高1.18m 玄室の奥側は、間仕切石と白石で棺座のようにしつらえている。 骨片と歯、鏡・玉、耳飾、刀や帯、鎧・冑などの武具・武器類などが出土 出土品は重要文化財となる。 壁面は榛名山二ツ岳噴出の角閃石安山岩の切石積み上げ、 天井石は吉井町産の牛臥砂岩が使用されている。 6世紀終わりごろの築造と推定されている |
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観音山古墳の埴輪配置図 (説明板から) 後円部頂には 円筒列で囲んだ中に家・盾・にわとり・大刀、 前方部頂にも、家や盾などヶ置かれていた 中段の平坦面には、 石室の入口付近に、盛装した男女と その従者と考えられる三人童女・弓を負う武人・食物を捧げる人からなる祭人グループ、 それに続いて、盛装の男子・甲冑を着けた武人・鍬を負う農夫などの人々と それを警護する盾持ち人が続き、 前方部には飾馬と馬引きなどの埴輪が並べられていた。 三人童女 (説明板から) 特に三人童女の埴輪は国内では唯一の出土例 |
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北西から見た観音山古墳 右奥後円部 |
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南から見た墳丘 左奥が前方部 手前の後円部テラスに、横穴式石室が見えている。 |
前方部から後円部を見る |
後円部から前方部を見る |
後円部テラスの南西側に開口する横穴式石室 |
石室内部 右側壁が崩れていたので復元。 見学申請をしないと中には入れない |
出土の様子 (説明板から) 石室が崩壊していたおかげで、 発見時未盗掘だった。 |
4時40分だが、もう暗い。
今夜の宿泊は 高崎市緑町のホテル「ながい」
明日はかみつけの里から始まる予定なので、かみつけの里の近くにした。
5時15分に、ホテル着。食事なしのプランだ。
6時まで休んで、コンビニで明朝食のパンを買い、夕食は「すきや」(高崎緑町店 緑町1-29-9)
近くに「浜尻天王山古墳」があるから、明日は、まず、ここに行く事にしよう!
浜尻天王山古墳につづく