北村さんちの遺跡めぐり
 更新日2025/1/8

茨城県の遺跡 その12 
筑西市2・結城市・下妻市・八千代町・常総市

茨城県の旅8日目、2024/4/14 最終日です。



「ビジネスホテルSANTA」の
    朝食バイキングをすませ

7時16分に出発

周辺の地図g

女方古墳群
市史跡
筑西市女方
見学日2024/4/14

民家の敷地内に取り込まれている神明塚古墳が市史跡になっている。

 女方(オザカタ)古墳群は 
  筑西市女方の 鬼怒川東岸の南北に長く連なる洪積世に分布する10基ほどの円墳群
  かつて四十八塚と呼ばれるほど古墳が存在したが、現存するのは3基
  弁天塚古墳(1号墳) 猫塚古墳(2号墳) 神明塚古墳
 昭和27年、28年にかけて、女方古墳群のうち
  日月塚古墳、藤の越古墳など円墳3基の発掘調査が行われ、
  藤の越古墳の横穴式石室から人骨及び鉄器片、
   墳丘をとりまく埴輪列から円筒14、馬2、人物7体分の埴輪が発見された。
    (筑西市ホームページから)

弁天塚古墳と猫塚は、レゾナック下館体育館の南にある。
工事中なのか整備中なのか……
北にあるのが弁天塚古墳。

 弁天塚古墳 (1号墳)
 全長33mの古墳 墳形は不明
 
前方後円墳の可能性がある。

弁天塚古墳 墳丘

墳頂部から南西方向を見る
墳頂には何かの構築物の台座が残る 
弁天堂が撤去されたのか? 

南西方向から墳頂部を見る
手前が前方部のようにも見える

整備のための工事であってほしい

弁天塚の南に猫塚古墳

 猫塚古墳(2号墳)
 径12mの円墳

東から見る

不法投棄禁止の立て看板がある

整備すれば不法投棄は無くなるのかもしれない

北から見る

約600m南の市道沿いの民家内に神明塚古墳がある。
標柱がある。

 神明塚古墳  市史跡
 径15mほどの円墳

西の道路から見る
ブロック塀の中に墳丘がある。

標柱がある。
「市指定史跡女方古墳群(神明塚)」

塀からのぞいて見る

庭の築山になっている。

  

船玉古墳
県史跡
船玉神社
筑西市船玉
見学日2024/4/14

古墳の上に神社が鎮座していたが、2011年の地震で神社が倒壊して
 現在、墳丘上は何もないが、墳丘斜面に石室が開口している
地震で倒壊した船玉神社は、現在 船玉古墳の南側の広場に建設されている。

 船玉古墳  県史跡
 鬼怒川の左岸の河岸段丘上に立地し、一辺約35m・高さ約4mの方墳

県内最大の横穴式石室は、全長11.5m
 奥室長5.05m・幅2.75m
 前室長3.2m・幅2.36m、
 羨道長2.14mの複室構造で
  羨道部・前室・玄室からなる。
石材は、雲母片岩の板石で、
 県下でも最大規模の巨石が用いられている。
 古くから石室が開口していて、玄室の奥壁と西壁とに壁画が描かれていることが、
   明治時代に、調査・報告されている。
 赤や白の顔料で、靱と思われる武具や円文、舟などが描かれていた
  といわれているが、永い間の開口とともに、その内容は不明となってしまった

      (筑西市HP)
 (図は古墳辞典から引用) 

東から見た船玉古墳

西から見た船玉古墳

南側から 赤い柵の奥に石室が開口している。
右は元参道の階段

手前が羨道
 石室内部は危険なので立入禁止

前室から後門と後室を見る

羨道から入口方向を見る

墳丘上 元は船玉神社があった。

墳丘上から、現在の船玉神社社殿を見る

説明板と石碑

説明板は
 筑西市教育委員会が設置したもので
 読みにくくなっているが、
 上の筑西市HPの内容とほぼ同じ。


周辺には円墳が数基あり、
  古墳群を形成している。

地震で倒壊した船玉神社は、2022年竣工した。立派なトイレもある。

 船玉神社 
 御祭神は :誉田別命、底筒男命、中筒男命、表筒男命
 御利益:は 武運長久、水の守護など
 創建:不詳
 地震や豪雨などの災害に見舞われたので、再建に際して
  神社には避難場所としての役割やコミュニティとしての役割を持たせ、
  地域に根付いた多面性の機能をもつ神社として計画された。
 10年間地元住民が積み立てして再建された。

船玉神社 南から見る

東から見ると、大きな船のようだ!
隈研吾氏の設計した神社をモデルとして造られた

拝殿と本殿がつながる社殿

境内の右奥には境内社の七鬼神社がある
 拝殿の右奥の壁には、
 東日本大震災で倒壊してしまった旧社殿の様子や復興支援の歴史が書かれている。


地震で倒壊した社殿
  (説明板写真から)

屋根はゆがみ
 さまざまな部位が崩れている
灯籠も崩れた

  

林古墳群
結城市鹿窪・林・上山川
見学日2024/4/14

結城市の古墳についてネットで調べていたら、
 林コミュニティセンター(結城市林)に、「林古墳群の説明板があると知った。

林古墳群周辺の地図g

 説明板から
  結城市指定史跡  林古墳群
 結城市鹿窪(カナクボ)・林からり上山川にわたる丘陵地帯に密集した古墳群で、むかし林三十三塚と呼ばれ数・型式・実質において驚異的な存在であったが、次第に発掘・開墾されて、今は市指定史跡となっている次の5基を含めわずか数基が残っているにすぎない。
 この古墳はおおよそ1400~800年前につくられたもので、この地方が早くから栄え文化が発達していたことをものがたるものである。
 私たち市民は祖先の残された文化遺産を次の世代に伝えるためにも、これらの古墳の保全につとめなければならない。
1、 保戸塚 (円墳) 径25m
2、 林八幡塚 (前方後円墳) 全長30m
3、 林八幡塚陪塚 (円墳) 径18m
4、 備中塚 (円墳) 径67m
5、 古山八幡塚 (前方後円墳) (未見学)

  結城市教育委員会   贈 結城ロータリークラブ
        平成9年4月4日

船玉古墳の西約2km。鬼怒川の西岸に保戸塚古墳がある。

 保戸塚古墳 (林古墳群)  市史跡       結城市鹿窪
 径25m・高さ4mの円墳
  詳細は不明。

「結城市指定文化財 史跡 古墳・保戸塚」の立札

墳丘

墳頂には石祠

墳頂から墳裾を見下ろす

南から見た保戸塚古墳

保戸塚古墳の南約1kmに、古墳が集中しているところがある。
大きな円墳の備中塚古墳。東側道路沿いに説明板がある。

 備中塚古墳 (林古墳群) 市史跡         結城市大字上山川
 直径67m・高さ8.5mの円墳
 周溝を含めた直径は約115mを測る
 葺石あり(鬼怒川から運ばれた川原石)   円筒埴輪あり。
 内部構造は未調査のため不明だが、粘土槨と推定されている。

上り口に立札
「結城市指定史跡 備中塚 古墳時代」
の立札と、「平地林の保全標識」の立札

墳頂へ登る道に”結城百選”の標柱がある

墳頂を見上げる

広い墳頂部 一等三角点の標識あり

墳頂部から裾を見る

西南西から見た備中塚古墳

北から見た備中塚古墳
 説明板から  
  結城ロータリークラブが平成19年に設置した説明板がある。

備中塚古墳実測図(説明板拡大)

備中塚古墳の西側に小備中塚古墳

 小備中塚古墳  (林古墳群)
 径25mの円墳 高さ2.5m

かなり変形しているのか

方向を変えて見る

備中塚古墳の道路を挟んで北にある「二十一世紀の杜」は古墳だ。
削られていて、古墳といわれなければわからない。

 瓢箪塚古墳  (林古墳群)
 全長48mの前方後円墳
 現状は墳丘が削られて、原型を留めていない。
 公園となる。「古山・ひょうたん塚古墳 二十一世紀の杜」とある。

案内板の後ろに低くなった墳丘

墳丘上

備中塚古墳の北約200mに、「結城市指定史跡 古墳・八幡塚陪塚」の立札がある。

 八幡塚陪塚  (林古墳群) 市史跡        結城市大字林
 径18mの円墳  高さ3.5m

「八幡塚陪塚」立札の左の奥に八幡塚古墳がある

西から見た八幡塚陪塚

陪塚ではない本物!の(林)八幡塚古墳は陪塚の西隣りの民家の後ろにあるが、私有地らしくて、目印はない。
たまたま地主の方が外に居られたので許可をいただいて見学。

 林八幡塚古墳   (林古墳群)    市史跡        結城市大字林
 全長30mの前方後円墳
  後円部径20m・高さ4.5m 前方部幅17m・高さ4m     詳細は不明。

林八幡塚古墳 右奥に前方部

林八幡塚古墳 後円部側

前方部から後円部を見る 墳頂には石祠

後円部から前方部を見る 南東から見る
前方部には社
 (地主さんによると父上の手作りとのこと) 

八幡塚陪塚の東に墓地があるが、その墓地の奥にも墳丘らしきものがある。


墓地の奥に高まり

八幡塚陪塚その2? 方向を変えて見る

   

桜塚古墳
市史跡
筑西市関本下
見学日2024/4/14

船玉古墳の南約3kmの集落の中に前方後円墳がある。筑西市

 桜塚古墳は、推定全長50mの前方後円墳   後円部径30m・高さ3.5m
 後円部頂は削られて稲荷神社となっているので、稲荷塚ともいわれている。
 壺形土器が採集されている。
 前方部も削られている。
 5世紀中ごろの築造と推定されている。

前方部は削られて児童公園になっている。鳥居の奥が後円部

後円部は稲荷神社となる

後円部墳裾に
石仏や石碑、墓石等が集められている

後円部から前方部方向を見る

奥の林の中に前方部の痕跡らしき高まりが残る
説明板から



実測図
説明板拡大

    

浅間塚古墳
市史跡
下妻市黒駒
見学日2024/4/14

県道233号線南側の農地の中に前方後円墳がある。下妻市

 浅間塚古墳は  全長40mの前方後円墳 後円部の高さ5.3m
 墳丘は良好に残る。

浅間塚古墳 右に後円部

後円部に石祠が祀られている

後円部から前方部を見る

前方部から後円部を見る

前方部手前から見た浅間塚古墳
説明板から

  

仁江戸古墳群
柴崎1・2号墳
八千代町仁江戸
下妻市村岡
見学日2024/4/14

八千代町と、隣接する下妻市柴崎(旧千代川村)には古墳群がある。
インターネット上に「仁江戸7号墳(2002年)」の報告書が公開されていたので参考にさせてもらった。

 仁江戸古墳群(柴﨑古墳群含む)は、
  前方後円墳4基を含む23基で構成されている

        仁江戸古墳群分布図

仁江戸1~21は 八千代町    
22・23(柴﨑1・2)は、下妻市村岡
21(愛宕塚古墳)は 町史跡  
22・23は市史跡(もとは千代川村史跡)
1 香取神社古墳 前方後円墳 全長71m
2 円墳 径8.5m
3 円墳 径8.5m
4 円墳 径12m
5 円墳 径32m
6 円墳 径17.5m
7 円墳 径26.5m
8 円墳 径12.5m
9 - -
10 - -
11 - -
12 - -
13 円墳 径11.5m
14 円墳 径18m
15 小桜塚古墳 円墳 径12.5m
16 不動塚古墳 円墳 径6.5m
17 円墳 径5m
18 観音塚古墳 円墳 径5m
19 庚申塚古墳 円墳 径15m
20 稲荷山古墳 円墳 径13m
21 愛宕塚古墳 前方後円墳 全長26m
22 柴崎1号墳 前方後円墳 全長65m
23 柴崎2号墳 前方後円墳 全長55m

まず愛宕塚古墳から

御所神社
社殿は火災のため、
 2017年に建て替えられたので新しい。


愛宕塚古墳は御所神社境内、
  御所神社の西の林の奧にある。

  

 愛宕塚古墳(仁江戸21号墳)
  愛宕山古墳・愛宕神社古墳ともいう
町史跡      八千代町仁江戸
 全長26m(?)の前方後円墳 高さ3m
 後円部上には愛宕神社が鎮座している。 
 前方部は一部削られて参道となっているようだ。  

愛宕神社鳥居 前方部手前から後円部を見る

大きな案内板には「愛宕山古墳」と書かれている

後円部頂には愛宕山大権現が鎮座

後円部から前方部(参道)を見る
参道右側が高くなっているので、
参道がそのまま前方部というわけではなさそうだ。
(筆者注) 愛宕塚古墳は全長26mの前方後円墳となっているが、
  そんな小さな前方後円墳とは思えない。
 「仁江戸古墳群(平成28年度)」では
  愛宕塚古墳は 柴崎1号墳と同程度の規模と書かれている。
 以前は、愛宕塚古墳は円墳とも考えられていたので、後円部径が26mということではなかろうか? 

愛宕塚古墳の東側に6基の円墳がある。

 仁江戸20号墳(稲荷山古墳)
  径13mの円墳 高さ1.2m
 仁江戸19号墳(庚申塚古墳)
  径15mの円墳 高さ0.5m
 仁江戸18号墳(観音塚古墳)
  径5mの円墳 高さ0.5m
 仁江戸17号墳
  径5mの円墳 高さ0.5m

左が仁江戸17号墳
 右は仁江戸16号墳(不動塚古墳)
 仁江戸16号墳(不動塚古墳)
  径6.5mの円墳 高さ0.5m

 仁江戸15号墳(小桜塚古墳)
  径12.5mの円墳 高さ1m

他にも高まりがある。
特定しきれていない……

愛宕神社(愛宕塚古墳)の西には、柴崎古墳1・2号墳がある。
住所は下妻市村岡字柴崎なのだが、仁江戸古墳群(八千代町仁江戸)の中に含まれると考えられている。

 柴崎1号墳(22号墳)  市史跡       下妻市柴崎
 全長65mの前方後円墳  後円部径40m  前方部はほとんど削られている。
 後円部上には浅間神社がある。
 4世紀後半の築造と推定されている。

 横から見る   右側の前方部は削られて低くなっている

後円部

 後円部墳頂部

墳頂部には浅間神社の石碑が鎮座

後円部から前方部を見る

前方部から後円部を見る

東側の林の中に柴崎2号墳がある。

 柴崎2号墳 市史跡      下妻市柴崎
 全長55mの前方後円墳、後円部径30m、墳頂には石碑。
 4世紀後半の築造と推定されている。

後円部

後円部墳頂には稲荷神社の石碑

後円部から前方部を見る

前方部から後円部を見る

御所神社の南東約1kmに、香取神社古墳がある。
薬王寺の墓地の北の香取神社
インターネット上に
  「古墳測量調査報告書1 茨城南部古代地域史研究((筑波大学歴史・人類学系)1991年」が
公開されていたので参考にさせてもらった。

 香取神社古墳 (仁江戸1号墳)    市史跡     八千代町仁江戸
 墳丘上に香取神社がある。


香取神社古墳 実測図
   (古墳測量調査報告書から) 目盛は10m

下が北となる。
北に前方部がある。

全長70mの前方後円墳
 後円部径45m・復元高5.5m
 前方部幅約14.4m・長25m・高2m
後円部は社殿建設時に破壊されている。
採取された埴輪片から
 5世紀前半の築造と推定されている。

後円部 神社社殿が乗る

後円部を削って建てられた香取神社

後円部頂の香取神社本殿

後円部から前方部を見る 前方部はかなり低い

前方部のピークを横(北東)から見る
前方部先端が高くなっている

前方部ビークから後円部を見る
樹木と逆光で見通しがきかない

後円部裾から墳頂を見上げる


仁江戸5号墳は、香取神社古墳の東約150m、自動車整備工場の奥にある。
許可をもらって工場敷地内に立ち入らせてもらうが、墳丘への上り口がみあたらない。
インターネット上に
  「広報やちよNo.746 2021年12月号 仁江戸5号墳の調査結果」
 が公開されていたので参考にさせてもらった。

 仁江戸5号墳  町史跡       八千代町仁江戸
 直径39mの円墳 
  八千代町の東南端に位置し、標高20m~26mの鬼怒川右岸台地上に立地する。
 江戸時代後半から明治期にかけて富士塚として整備され、
  戦後まで地域の人々によって信仰されてきた歴史をもっている。
 仁江戸5号墳に築かれた富士塚には、12基も石碑が祀られており、県内でも類例が少ない。

仁江戸5号墳調査区配置図
    (「広報やちよNo.746」から)

令和3年に調査されて、周溝跡が確認された 

富士塚は古墳の頂上周辺を削り
  中央に盛り上げて造られた事が確認された

富士塚の下部には埋葬施設と考えられる痕跡がある。

古墳に伴う遺物は認められなかった
仁江戸古墳群中では香取神社古墳に次ぐ、
  古墳時代中期(5世紀)の築造と推定
されている。

とんがり帽子のような墳丘が見える
とんがり帽子が富士塚として整備された部分かな

整備工場敷地内からは全体が見える


「道の駅しもつま(下妻市数須)」の食堂で昼食と思ったが、
多くの人がいて時間がかかりそうだったので、 弁当を食べて 
 国道ステッカーを2種類ゲット!

㈱キタセキルート294(下妻堀籠字下弁才)でガソリン給油して
  最後の見学地 六所塚古墳へ。

六所塚古墳
市史跡
常総市蔵持
見学日2024/4/14

常総市。県道136号線から東を見ると、きれいな墳丘が見える。

 六所塚古墳を含む神子女(ミコノメ)古墳群は 鬼怒川西岸にあり、
  かつて六十六塚といわれ、前方後円墳4基、円墳81基が確認された古墳群
 神子女古墳群に現存する古墳は、開発などにより20数基が確認されるのみとなっている。
 前方後円墳では六所塚古墳(神子女73号墳が現存している。
 円墳の弁天塚古墳(第65号墳)がある。
 そばには平将門一族墳墓の石碑もある。(常総市デジタルミュージアムなどから)

  

 六所塚古墳  (神子女73号墳)   市史跡
 全長70mの前方後円墳
  後円部径45m、高さ7m前方部幅35m・高さ3.5m
 後円部西側が道路で少し削られているが、それ以外は良好。


墳丘図

  (古墳辞典から)

 平将門あるいは将門の父良将が埋葬されているともいわれるが、詳細は不明。

標柱と説明板
説明板は「六所塚孝(考の間違いか)」として、
いろいろ書かれている。

古墳についての説明はわずかなので、割愛。
興味がある方は現地でごらんください

後円部から前方部を見る

墳丘には謎の穴が3か所見つかった(動物?)

 前方部から後円部を見る
前方部脇から後円部を見る

全景 西から見る

六所塚古墳の南東には、弁天塚古墳が残る。

 弁天塚古墳  (神子女第65号墳)
 径31mの円墳 高さ2.6m

弁天塚古墳を西北西から見る

弁天塚古墳を東から見る

弁天塚古墳の墳頂部

うっそうと茂っており見通しは良くない

前方後円墳のように見える

古墳だと思って写真を撮ってきて、帰ってから調べたら、弁天塚古墳だった。大正解!

さて午後2時を過ぎ、帰路につきます!

14:20 坂東IC(首都圏中央道連絡自動車道)
   - 14:55 鶴ヶ島JCT(埼玉県鶴ヶ島)
   - 15:05(-13) 高坂SA(埼玉県松山市)
   - 15:42 藤岡JCT(群馬県藤岡市) 上信越自動車道
   - 15:57 更埴JCT(長野県千曲市)
   - 17:00(-15) 松代PA(長野県長野市)
   - 18:06 上越JCT (新潟県上越市) 北陸自動車道
   - 19:06(-39) 有磯海SA(富山県魚津市・カレーライスの夕食)
   - 20:39  徳光IC(石川県白山市)
   - 帰宅

カレーライスの夕食
茨城県の遺跡めぐり  走行距離約 1,932km

茨城県の遺跡めぐり 終わり

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