北村さんちの遺跡めぐり
掲載日 2013/11/24
東北の旅その5
三日目@
松島・瑞巌寺から
撮影日2013/10/1〜6

10月3日、東北三日目の朝、ホテル壮観で、バイキングの朝食を済ませ、7時45分出発。
松島の市営駐車場に駐車、瑞巌寺へ。

宮城県の地図g

瑞巌寺 宮城郡松島町松島
撮影日
2013/10/3

瑞巌寺総門前、午前8時着。

瑞巌寺は、828年(天長5年)慈覚大師の創建と伝えられている。奥州随一の禅寺。


総門  一間一戸袖塀付の薬医門。
慶長14年(1609年)、伊達政宗によって建立された。

参道の途中
左の標柱には「3.11津波到達地点」と書かれている。

寶華殿(陽徳院御霊屋) 国指定重要文化財
伊達政宗公の正室の墓堂
内部には、正宗・愛姫夫妻の位牌が安置されている。

瑞巌寺参道脇道の石窟群
約200mにわたって多くの石窟群が並ぶ。
修行の場として利用され奥州の高野山と呼ばれていた。

本堂(国宝)は大改修で拝観できないが、
本来本堂に安置されている本尊やお位牌などが、庫裡(国宝)や大書院で特別公開されている。


庫裡(国宝) 1609年(慶長14年)建築

大書院内部 フラッシュ無しで、撮影可
       ふすま絵は、実物大の写真だ。

雲版(ウンパン)  国重要文化財
大衆に粥斎(食事時)を告げる法器。
嘉暦元年(1326年)円福寺10世明極の鋳造で、
記年銘現存2位の古さを誇る。

昭和2年 高村光雲作  光雲観音  

午前9時出航の第三仁王丸に乗り、松島遊覧。50分の船旅を満喫。

第三仁王丸





遊覧船からの景色その1




遊覧船からの景色その2


松島は、多くの島のおかげで、津波の威力が衰えたため、他に比べて被害が少なかったそうだ。

五大堂
国重要文化財
宮城県松島町松島
撮影日
2013/10/3

大同2年(807年)坂上田村麻呂が創建したと伝えられている。
828年、慈覚大師が五大明王を安置したことから、五大堂と呼ばれるようになった。
現在の建物は1604年、伊達政宗が再建したもので、東北地方最古の桃山建築として国重要文化財に指定されている。


海側から見た五大堂

透かし橋(縁結び橋)を渡って五大堂へ

五大堂

五大堂 軒下に干支の彫り物がある。

駐車場に戻り、観瀾亭などの見学はやめて、次へ・・・・午前10時15分。

塩竃神社 宮城県塩竃市
撮影日
2013/10/3

10時40分着。

元は当地には鹽竈神社のみが鎮座していたが、明治時代に志波彦神社が境内に遷座し、
  現在は正式名称を「志波彦神社鹽竈神社」とし1つの法人となっている。

志波彦神社
志波彦神社は鹽竈の神に協力なされた神と伝えられていて、
  国土開発・産業振興・農耕守護の神として信仰されている。
昭和13年完成の建物である。 塩竃市文化財

志波彦神社神門

志波彦神社拝殿
   
鹽竈神社
鹽竈神社は陸奥国一宮で、創建は不明だが9世紀前半には存在していたと考えられている。
現在の社殿は、1704年(宝永元年)完成。
「三本殿二拝殿」という全国ても類例がほとんどない社殿構成で、
江戸中期の神社建築として、国重要文化財に指定されている。

鹽竈神社 東参道から東神門を見る
 

鹽竈神社 唐門
 

鹽竈神社 別宮
 

鹽竈神社 末社
 

銅鐡合製灯籠
1809年製。伊達9代藩主の寄進。 

鹽竈神社 随身門と表坂
   

三本殿というのは「右宮本殿」「左宮本殿」「別宮本殿」だが、右宮と左宮は修理のため見学できなかった。

多賀城跡 宮城県多賀城市市川ほか
撮影日
2013/10/3

11時半ごろ 着。広大な遺跡だ。



多賀城跡政庁範囲図 
  (シリーズ遺跡を学ぶ・多賀城から引用)

多賀城は、奈良・平安時代の陸奥国府跡である。
約1km四方を築地塀で囲み中央には儀式を行う政庁がある。
さらに、城内にはさまざまな仕事をした役所がたくさんあった。




高校生がいくつかのグループに分かれて、あちこちで、ガイドさんの説明を聞いている。


多賀城跡 上ると南門跡がある。

多賀城跡 政庁南門跡

多賀城跡 石敷き広場跡

多賀城跡 政庁正殿跡

多賀城跡 政庁後殿跡

多賀城跡 政庁南門跡より入り口を見下ろす

多賀城跡見学の大きな目的、多賀城碑の見学へ。


多賀城碑の覆い屋

多賀城碑

 多賀城碑(重要文化財)は、多賀城南門近くにある小さな堂の中に立っている。
 この碑は、高さ196cm・最大幅92cmの砂岩で、碑面をほぼ真西に向け立てられている。
 碑面には141字の文字が彫り込まれている。
 中央上部に「西」の一字があり、その下には140字が11行に配されている。
 碑文は、
  前半には
   京(=奈良の平城京)、蝦夷国(東北地方北半)、常陸国(茨城県)、下野国(栃木県)、
   靺鞨国(マツカツノクニ)(中国東北部)から多賀城までの距離が記されている。
  後半には、
   多賀城が神亀元年(724)大野朝臣東人(オオノノアソンアズマビト)によって設置されたこと、
   天平宝字6年(762)藤原恵美朝臣朝カリ(フジワラノエミノアソンアサカリ)によって改修されたこと
  が記されている。
 また、最後に天平宝字6年12月1日と碑の建立年月日が刻まれている。
この碑は「壺碑(ツボノイシブミ)」とも呼ばれ、
  江戸時代初めの発見当初から歌枕「壺碑」と結びついて広く世に知られていた。
松尾芭蕉も旅の途中にこの碑を訪れ、深い感動をもって対面した様子が「おくのほそ道」に記されている。
多賀城碑は、
 群馬県の多胡碑(タゴヒ)、栃木県の那須国造碑(ナスノクニミヤスコノヒ)とともに
 日本三古碑のひとつに数えられている。
平成10年6月30日に国の重要文化財(古文書)に指定された。 
    (現地説明板・多賀城市HPから)
令和6年8月27日付けで官報に告示され、重要文化財多賀城碑が国宝に、
   市内出土の文字資料の一部が正式に重要文化財になりました。  (2024/11/1  追記)

つぼのいしぶみ」は、歌枕として、未知なる陸奥の象徴として和歌に詠まれている。

「山家集」 西行    「陸奥のおくゆかしくぞおもほゆる壷の碑外の浜風」

「家集」 藤原清輔  「石ぶみやつかろの遠(おち)に有りと聞えぞ世中を思ひはなれぬ」

「拾玉集」 源頼朝  「陸奥の磐手忍はえそ知ぬ書尽してよ壷のいしぶみ」

末の松山 宮城県多賀城市八幡
撮影日
2013/10/3

12時10分 着。宝国寺境内に松が2本ある所。3台分ほどの駐車場がある。

末の松山
「君をおきてあだし心をわがもたばすえの松山浪もこえなむ」 (古今和歌集 東歌)
「ちぎりきなかたみにそでをしぼりつつすえの松山なみこさじとは」(後拾遺和歌集 清原元輔)
などの歌で著名な代表的な歌枕の地。  (実は、末の松山の所在地については諸説がある。)
元禄2年(1689年)、松尾芭蕉は、ここを訪れ
「はねをかわし枝をつらねる契の末も終はかくのごとしと哀しさも増さりて」
 と無常観を感じたと、おくのほそ道に書いている。
    (説明板から)

「末乃松山」と刻まれた石碑と2本の松

「君をおきてあだし心を・・・」
と刻まれた石碑

末の松山は「波が越えない」と続くが、3.11の津波の時も、ギリギリのところで津波は来なかったそうである。

12時20分を過ぎたので、近くの丸源ラーメン(多賀城市町前1丁目)で昼食。
(この辺りも津波が来たんだな・・・。)

12時50分 仙台東部道路 仙台港北ICから名取ICへ

名取市・雷神塚古墳につづく。  

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